「類を見ない」世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道(1/2ページ)
龍谷大非常勤講師 湯川宗紀氏
「日本で唯一、世界でも類を見ない資産として高い価値を持っています」(和歌山県世界遺産センターHP)
日本国内で12番目、2004年に世界遺産登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」、それは単に社寺とその周辺の参詣道だけではなく、山岳信仰の霊場として奈良県吉野・大峰、和歌山県高野山、熊野三山周辺、そしてそれらをつなぐそれぞれの道が山岳修行の「道」として「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。
これまでの、特に日本国内の世界遺産は、奈良や京都、また姫路城や原爆ドームといったわかりやすい「点」が世界遺産として登録されてきた。しかし「紀伊山地の霊場と参詣道」は「面」として世界遺産登録された。登録エリアは奈良、和歌山、三重の3県23市町村にわたり、登録資産面積は495・3㌶、バッファゾーン1万1270㌶と広大な、国内最大の登録面積の世界遺産である点もこれまでに「類を見ない」点の一つであろう。
そして、UNESCOの世界遺産登録のトレンドも大きく変化し、これまで誰も注目しなかった裏山の山道だったものが突如として世界遺産というものに変わってしまったこともあった、これもまた「紀伊山地の霊場と参詣道」の持つ「類を見ない」点の一つである。
今では誰もが知る世界遺産、しかし1972年に採択された「世界遺産条約」に、日本は20年も経った92年、125番目の締約国として「世界遺産条約」を締結した。当時の知名度、希少性は大変低く、その頃の雰囲気を、高野山世界遺産登録委員会委員長を務めた高野山真言宗僧侶で元高野町長の後藤太栄氏は雑誌インタビューで、「日本が世界遺産条約締約国になった直後、文化庁筋から高野山に対して登録してはどうかとアプローチがあったが、当時の関係者は興味を示さず丁重に辞退した」、実際、「日本での関心はその程度だった」と語っている。
高野山もその後世界遺産化を目指して活動し、「紀伊山地の霊場と参詣道」を成す一角として2004年に世界遺産に登録されることになる。登録までには高野山のように単独での世界遺産登録を目指した社寺もいくつかあった。一市民として熊野古道を世界遺産化するためにはどうすれば良いか直接文化庁に電話でたずねた人もいた。また、登録に反対する地域・個人、消極的な社寺、様々な立場の地域、団体があった。
「その程度」だった世界遺産が日本の多くの地域が目指すべき目標となったのには、世界遺産というものの認知度が上がったことは当然であるが、バブル崩壊後、世界は国家間ではなくグローバルな都市間・地域間競争の時代へと突入していったのである。日本国もこれまでの方針を転換し、国が地域を支えるのではなく、地域が知恵と工夫の競争による活性化を目指すように、自助と自立を強いるようになった。そしてその後の「観光立国推進基本法(07年)」にみられるように地域の活性化は主体的な観光事業と方向付け、その結果、各地域は挙って観光による地域間競争に、主体的に、没入していくことになる。
地域の自立・活性化と観光事業競争、そのような中「世界遺産」は非常に魅力的なブランドであることに間違いは無い。日本交通公社は全国の観光資源のランク付けを行っている。その中の最上級なものをSランク、すなわち「特A級資源(わが国を代表する資源であり、世界に誇示しうるもの。日本人の誇り、日本のアイデンティティを強く示すもの。人生のうちで一度は訪れたいもの)」としている。「紀伊山地の霊場と参詣道」において世界遺産登録以前の1999年の評価でSランクとして評価されているのは熊野那智大社と吉野山のサクラだけであったが、登録後は高野山金剛峯寺、熊野三山(熊野那智大社・熊野速玉大社・熊野本宮大社・青岸渡寺・補陀洛山寺)、吉野山のサクラがSランクとして評価されることになった。