愛知・西光寺「一行一筆結縁経」が語ること(1/2ページ)
多摩美術大美術学部教授 青木淳氏
愛知県津島市・西光寺の地蔵菩薩像の胎内から、「一行一筆結縁経(写経)」(以下、西光寺結縁経)が新たに確認された(伊東史朗「愛知・西光寺地蔵菩薩像(水落地蔵)の新知見」(『佛敎藝術』342号 2015年)。この西光寺結縁経は、これまでの歴史には描かれることのなかった浄土宗の法然(1133~1212)・臨済宗の栄西(1141~1215)・東大寺大勧進の重源(「南无阿弥陀仏」、1121~1206)・安徳天皇の母の建礼門院落飾の戒師をつとめた印西(生没年不詳)といった名だたる僧が、経文を一行ずつ分写するという不思議なものである。それは、法華経の開経・結経とされる「無量義経」と「観普賢経」からなるもので、それぞれの行末に筆写した人物の名が書かれている。
この西光寺結縁経を初めて拝見したとき、これはかつて私が調査に携わった大阪・一心寺の「一行一筆結縁経(般若心経・阿弥陀経)」とそっくりだと思った(拙稿「大阪・一心寺結縁経にみる『結衆』の構図」『印度學佛教學研究』45―2・影印版は『遣迎院阿弥陀如来像像内納入品資料』)。やはりこれらは、まったく同一の体裁・寸法の料紙に書かれたもので、当初は一具のものであることも確認されていた(伊東氏前掲書)。その後、この「般若心経・阿弥陀経」(総数120名)と「無量義経」(総数465名)と「観普賢経」(総数416名、合計で601名=行数同じ)に名を連ねる人々について、その相互の関係を紐解いてゆくと、その背景には実に興味深い歴史的な光景が浮かび上がってきた。
当時、平氏政権と対立関係にあった南都の諸大寺は、平家一門の攻撃を相次いで受け、歴史有る大伽藍はみな灰塵に帰した。そうした中での南都復興の事業は困難を極めたが、「治天の君」である後白河法皇(1127~1192)は次なるドラマの行方をうかがっていたに違いない。
西光寺結縁経が執筆されたのは、ともにその胎内に納められた諸国勧進の記録によると、文治年間(1185~90)のことと考えられる。東大寺焼失の翌年には、後白河法皇により東大寺復興のための除目がひらかれ、造東大寺長官には後白河院の近臣・藤原(葉室)行隆、そして大勧進職には俊乗房重源が任じられた。「行隆」の署名は、多くの僧名に交じって西光寺「観普賢経」に認められ、また重源の名は一心寺「阿弥陀経」や西光寺「無量義経」に「南无阿弥陀仏」として署名している。また奇しくも西光寺「無量義経」の冒頭近くに見える「信空」は法然の高弟として知られた人物で、この行隆の息子である。
西光寺結縁経に先んじて確認された一心寺結縁経には、天台の座主慈円、真性、九条家の護持僧である大原の湛斅、長楽寺の印西、善峯寺の観性、それと源空(法然)、真言では高野山蓮華谷聖の祖である明遍、永観堂の静遍、このほかに東大寺の重源、後鳥羽上皇の護持僧の長厳、高山寺の明恵といった名も見える。さらに西光寺「無量義経」の冒頭部分には、印西に続いて信空・長尊・感西・信救・欣西・隆寛といった法然の高弟たちの名が連なり、また源空と長尊についで「栄西」の署名も見える。栄西は重源の死後に第二代東大寺大勧進としてその事業を受け継ぎ、今も残る東大寺の大鐘楼を再建している。