米国アジア系市民へのヘイト犯罪(1/2ページ)
武蔵野大名誉教授 ケネス田中氏
先日、アメリカの仏教雑誌『Tricycle: The Buddhist Review』のインタビューを受けた際、アジア系市民へのヘイト犯罪について聞かれた。まず、私は現在、アジア系アメリカ人として日本に住んでいるが、アメリカに住む成人した私の子供たちや友人のことがもちろん心配であると答えた。そして、仏教徒としてどう考えるかについて、白人系の彼らが理解できるよう端的に答えた。その後、このような質問を受けたことがきっかけになり、私はヘイト犯罪について更に深く考えるようになり、この紙面上で私の考えを『中外日報』の読者の皆様と共有させてもらうことにする。
私の子供たちにアジア系市民へのヘイト犯罪について聞いてみたところ、懸念はしているが生活には変化はないと言っていた。ただ、去年パンデミックが始まった4月頃、飲食店内に次男家族(息子の連れ合いもアジア系)が入店した際、ある家族が息子たちを意識したように、マスクをわざわざ着け出したということを次男から聞き、以前とは明らかに社会の空気が変わったと感じた。
1958年から北カリフォルニアで育った私は、アジア系として露骨な差別的行動を受けたことはない。学校で軽いレベルのからかいを受けたことはあるが、悪質な言動ではなかった。また、戦後の日系人は、一般社会に溶け込みそれなりに社会的地位を確保し、カリフォルニア州では日系の国会上院議員までも登場した。今では、戦後生まれの我々三世を含むそれ以降の世代の日系人の大半が、日系人以外と結婚している。私の弟の妻も、ドイツ・イタリア系アメリカ人だ。
もちろん、どの社会でも自分と異なる人々に対しての偏見は存在する。現在、アジア系アメリカ人は、全人口の約6%の2千万人となり、もっとも急増しているグループである。それも、約半分は外国生まれであるという理由からも、アジア系は「永遠に外国人」(forever foreigner)というイメージが強いのも事実だ。
去年から高まった今までにないアジア系に対するヘイト犯罪の原因は、コロナ・パンデミックがきっかけだ。トランプ前大統領の言動がこれに関して大きく影響したことは明らかである。コロナを“China virus”(中国ウイルス)と呼び、英語ではインフルエンザの事を一般的にフルー(flu)と呼ぶことから、中国のKung-fu(カンフー)にかけて“Kung-flu”(カン・フルー)と呼び中国を責めた。また、台頭する中国の脅威に対する不安がアメリカ社会で高まっていることも確かで、これらが、アジア系市民をスケープゴートにする雰囲気を作った原因になったと考えている。
さて、私は仏教徒として、この状況には仏教の教えを心の軸として対応すべきだと考えている。釈尊の有名なお言葉である「怨みを持って怨みは治らない。怨みを捨てることによってのみ怨みは治る」(『法句経、五』)を念頭に置き、この精神を自分の指針としている。つまり、ヘイト的な行動を取る人々に対しても、私は怨みを持たないということである。怒りを感じても、怨みは持たないように努力したい。
しかしそうは言っても、目下、アジア系市民が酷い差別の対象になっていることは、自分もその一アジア系市民として、もちろん決して良い気持ちはしない。更に、このような気持ちは、自分は「嫌われているグループ」の一人であるという「被害者意識」(victim mentality)を持たせ、自尊心を失わせることにもなりかねないと懸念する。我々は、実はこのようなことで「自分が悪い」とか「自分が劣等である」という意識を持ってはならないのである。では、このような気持ちに陥らないようにするにはどうしたら良いであろう。我々は、このようなヘイト的考えは、「加害者の差別心」が原因であると見るべきなのである。これを心の底にしっかり留めておかないと、加害者の怨みや偏見を自分の問題として内面化してしまい、自分の本質を揺るがしてしまうかもしれないからである。
ところでこのような気づきは、仏教徒として主体性を発揮することでもある。釈尊が『スッタニパータ、213』で述べるように、聖者の特徴は、他者の「非難と賞賛とに動揺せず」と言い、ここではっきり、釈尊が主体性を重視しているのがわかる。主体性とは、法(ダルマ)に導かれて内面に養成される精神力から生まれる自信に基づき、如来蔵・仏性・見性・信心などと深く関係すると、私は見ている。日本仏教の最澄、空海、法然、栄西、親鸞、日蓮、道元なども、強固な主体性を発揮された大先輩である。我々は同じレベルに到達できないとしても、この主体性を理想とし、少しでも体得することが望ましいのである。
さて、主体性に必要なのは自己内省であろう。その自己内省には2点あり、その1点は、私自身が常に怨みに振り回されないように努めることである。それは、「怨みを捨てることによってのみ怨みは治る」という教えに沿うことにもなり、また、差別の原因となる怨みを捨てることで、自分が社会の一員として、差別問題の解決に少しでも貢献できるからである。2点目は、そのように言いながらも、我々は皆、この厳しい競争社会で生き抜いていくために、実は「自分も偏見を持って生きている」ということに気が付くことが必要であると思う。