彼女たちはなぜ死ぬべきなのか(2/2ページ)
天理大学附属おやさと研究所教授 堀内みどり氏
このように「ダウリー」を持参しなければ「女性は価値がない」とみなされるような男女に横たわる「優劣」という価値は、男性がより尊重される社会では“当たり前”のように見られますが、女児中絶にも結びついています。インドでは、ダウリーが多額になるにつれ、また、ダウリーという習慣があるために、女児が忌避されがちです。技術的にも胎児の性別を見分けられるようになった昨今では、女児中絶が進んでいるように思われます。インドの人口センサスによれば、1991年、0~6歳の男児100人に対して94・5人だった女児は、2001年には92・7人、11年には91・8人となりました。
中東で行われる「名誉の殺人」で、その対象となるのは常に女性でした。『生きながら火に焼かれて』(スアド著、明石書店、04年)の白いマスクのスアドさんを写した表紙は強烈で、目をそらすことができないほどにインパクトのあるものです。17歳で恋をし、妊娠した彼女を家族は許しませんでした。家族の名誉を汚したとして、その名誉の回復のために義兄が火あぶりにしました。シスヨルダンにあった彼女の村では、そうすることがその社会で生きていくために必要で当然なことだと考えられていたからです。村では未婚の女性が男性と話すだけでも、家族の恥としてシャルムータ(娼婦)とみなされ、名誉の殺人の対象となりました。今でも世界中で年間数千人の少女が、犠牲者となっています。彼女たちはたとえ命がたすかっても口外することはないので、スアドさんの体験記は貴重な記録と言えましょう。では、どうして女性のみが殺されるのでしょう。近年目にする南アジアの報告では男性も犠牲者となることがありますが、女性が第一の対象であることに変わりません。
ダウリー殺人や名誉の殺人は日常生活の中で起きていることで、関係者が語らなければ「事実」は無かったことにされてしまうことが多いのです。それらが、その社会にとって、習俗・慣習・伝統などに組み込まれていたりすると、それは独自の「文化」として受け継がれたりします。私が留学を終えようとする頃、「サティー儀礼(寡婦殉死)」が行われたという記事が新聞に載りました。この儀礼は、亡くなった夫に殉じ、妻が夫と共に焼かれるというものです。妻はこれによって夫への貞節を示すことができ、サティー女神(シヴァ神妃)と同様にみなされます。1829年に、法的に禁止されましたが、今なお年に数件起こっています。あくまでも残された妻の自由意思によるものだとされますが、そうでない場合もあり、「宗教の名の下で行われる殺人」とも称されます。この儀礼はもともとは葬送儀礼の一部の文言が読み替えられて現在のような形で定着したようです。こうした知らない現実、知られていない事情は世界に多くあります。それは時としてあまりにも当然のことと思われていて、また内面化されてしまっていることもあるのです。
なぜ、ダウリーが必要なのか、なぜ、名誉を汚すのは女性とされてしまうのか……。FGM/C(女性性器切除)の習慣、女性への暴力、児童婚、環境開発/破壊に伴う女性の貧困化など、その継続の背景にあるもの、「当たり前」と思わせてきたものに何がかかわってきたのか。そうしたことを考えるためにも、世界で女性を死に追いやっているであろう“文化”とか“伝統”と言われてきたものの中身を知り、伝えることが必要です。
日々の生活の中で当たり前だと思っていることに「あれ? 変だ」と感じることは、ジェンダー化されている社会やその中で当然のこととして受け入れられている性のありようについての「違和感」や偏見・差別への気づきとなって、人として生きる意味を考えさせてくれます。宗教は、その聖典の中で、女性について語り、女性観や男性観の形成に少なくない影響を与えてきています。だからこそ、文化や伝統などの言説に組み込まれてきた宗教のメッセージを再考するべきだとも言えます。人々を「救う」営みや働きであるはずの宗教の、そのメッセージが女性たちを死へと追い込んでいるものであるなら、ジェンダー化した社会を支えているもののひとつなら、女性たちを「女性が置かれた立場」に置いておくものとなってしまっているのなら、本来のメッセージを取り戻して発信することが必要となります。
「宗教的な伝統の名のもとに女性を制限することは、多くの事例においてより広い人権侵害や政治的圧力の兆候だ。それは広範な圧政の風潮の中で涵養されており、数えきれない仕方で女性や男性に影響を与えている」(シーガー、同書)