日本中世の真言宗と祈祷(1/2ページ)
種智院大人文学部仏教学科准教授 西弥生氏
天皇の御衣を加持し、国家安泰・玉体安穏・万民豊楽・五穀豊穣を祈る真言宗の重要な恒例法会、後七日御修法が、本年も1月8日より智積院の布施浄慧化主を大阿闍梨として執り行われた。元来、後七日御修法は宮中真言院で行われていたが、現在は東寺灌頂院において厳修されている。
真言密教は、教相(教義の修学)と事相(教義に基づく実修)を柱として継承されてきたが、公家(天皇・上皇)や武家といった世俗権力者との密接な関係のもとで、特に事相に力を注いで存続を図ってきた歴史がある。各時代における様々な所願に応じた修法(祈祷)を行い、真言宗は発展を遂げてきたのである。
そこで今回は、コロナ禍の現状においても「祈り」に向き合っている真言宗の歴史の一端を、修法という観点から見てみることとしたい。
平安時代以来、真言宗が担ってきた社会的役割は「鎮護国家」であった。鎮護国家をめぐる宗祖・弘法大師空海の理念は、空海の詩賦や書簡等が多数収録される『性霊集』のうち、巻第4に所収される「国家の奉為に修法せんと請う表」などに示されている。これは弘仁元(810)年10月27日に空海が嵯峨天皇に対して上奏したものである。『仁王経』『守護国界主経』『仏母(大孔雀)明王経』等に説かれる教えはいずれも仏が「国王」のために説かれたもので、七つの災難を打ちくだき、「国を護り家を護り」、自身をも他者をも安らかにする経典であることを強調した上で、空海はこれらの経典に基づく修法を行いたいとの意思を天皇に表明した。以来、真言宗は修法を通じて鎮護国家という役割を果たしていくこととなった。
その後、弘仁14(823)年に空海は嵯峨天皇より東寺を勅給され、東寺は鎮護国家の根本道場となる。南北朝時代の東寺の碩学である観智院賢宝が中心となって制作された絵巻『弘法大師行状絵』には、絵と詞書によって分かりやすく、かついきいきと空海の生涯と功績が描かれており、巻8第1段「東寺勅給」には鎮護国家の拠点としての東寺の由緒について語られている。詞書には、「東寺は密教にふさわしい優れた場所であり、国家鎮護の眼目ともいうべき場である。東寺に帰依してこれを敬えば天皇の治世は明るく、都も地方も泰平である」(以上現代語訳)という趣旨の記述も見られる。『弘法大師行状絵』は空海の功績を顕彰するために制作されたものであるという性格上、様々な伝説も盛り込まれており、史実としてそのまま受け取りがたい箇所も見受けられるが、「東寺勅給」の段には鎮護国家の拠点としての東寺の役割や歴史を強調しようとした賢宝の意図が顕著にうかがえる。
このように、真言宗は鎮護国家の祈祷を通じて公家を護持し、それに対し帰依と外護(経済的援護)を得ることで、双方の関係性が構築され、維持されてきた。特に平安院政期には上皇との密接な関係を背景に、仁和寺御室が孔雀経法をはじめとする修法を盛んに行うとともに、結縁灌頂や伝法灌頂などの秘儀を天皇・上皇に授けるなどして圧倒的な勢いで発展を遂げた。
また、平安時代にとりわけ興隆したのは雨乞いの祈祷であった。前掲『弘法大師行状絵』巻8第4段「神泉祈雨」には、空海による雨乞いをめぐる記述に続き、元杲僧都や仁海僧正のほか、「成尊・勝覚・成宝・成賢等の英匠」もまた天皇の詔を承って祈雨法を行ったことが記されている。弘法大師を讃える文脈の延長上に、功績のあった門徒の名も挙げられたことで、それらの僧侶自身の名誉が高められたのはさることながら、その属する寺院・院家・法流の権威性も顕示されることとなったといえる。