陰陽道研究の現在(1/2ページ)
活水女子大教授 細井浩志氏
摂南大准教授 赤澤春彦氏
陰陽師は中国に起源を持つ占い、呪詛祓いや星祭りのような呪術・祭祀を行い、日の吉凶や方違えを指導する占い師・呪術師であり、その術や組織が陰陽道と呼ばれる。今日、陰陽道は日本史や国文学・宗教学で一つの重要な研究分野であると同時に、サブカルチャーの世界でもコンテンツとして確固たる地位を占めている。これは1980年代に日本の学術界でも目立ったポストモダンの流れと互いに影響し合っていた。
明治政府が陰陽道を淫祠邪教と排撃し、第2次大戦後もマルクス主義史学に代表される「社会構成体史」研究が流行したので、一部の民俗学研究を例外に、陰陽道は迷信であり研究の価値はないものとされてきた。しかし従来の研究手法や視点が行き詰まりを見せる中、国内外の歴史学界で社会史が流行し、障害者や被差別民・異端などの存在が注目されるようになる。近世の陰陽師の一部には被差別民がおり、邪宗とされた立川流が陰陽師と関係ありとされる。さらに陰陽道は暦道(暦を造る人々)と天文道(占星術師)と一体の関係にあった。科学の進歩を当然視する従来の在り方を批判し近代科学を相対的に見ようとする科学史が注目された中で、陰陽道を取り上げる機運も高まってきた。
この流れの中で陰陽道研究は徐々に増え、80年代には研究書も刊行され始めた。続いて91年から93年にかけて、村山修一・下出積與・中村璋八・木場明志らを編者に『陰陽道叢書』全4巻が名著出版から刊行された。
この叢書は、従来は連携に乏しいまま個々の研究者がその都度の興味関心で著した陰陽道の研究論文の中から重要なものを選び、解説や文献目録とともに載せた本である。特に編者の一人の山下克明は、陰陽道が中国の陰陽五行説そのものではなく、中国起源の占い・呪術(陰陽)を担うものとして日本で成立した朝廷の学術・専門家集団(諸道)の一つであると明確に定義したことは大きい。これによって日本史学における陰陽道研究の指針が定まったのである。
当時の陰陽道はほぼ手つかずの研究分野だったので、叢書は若手研究者の意欲をかき立て、陰陽道で研究を始める際の手がかりとなる画期的なものであった。こうした研究状況の影響もあって小説・マンガでかつての安倍晴明物がリバイバルし、一般の陰陽道への関心も高まった。これが陰陽道研究の裾野を広げることにもつながった。
叢書以降、陰陽道の実態解明が進んだ結果、日本の政治・社会・宗教を理解する上で陰陽道理解が必要なことが明らかになった。さらに陰陽道研究が古代に偏ってきたことに対する批判から中世以降の陰陽道の展開を明らかにすることが課題として挙げられ、この25年で歴史学や宗教学だけでなく、文学や民俗学の分野からも盛んにアクセスされるようになった。
最新の中世陰陽道の研究によれば、陰陽道の隆盛期は平安時代ではなく、むしろその後の鎌倉時代であるという。院政期以降、日本における国家の在り方は院政、平氏政権、鎌倉幕府と多様な展開を見せるが、それに伴い陰陽師の活動の場は公家・武家を問わず広がっていったのである。
このように陰陽道の歴史において古代・中世は断絶ではなく、むしろ連続の側面が強調されるようになったが、こうした陰陽師の歴史は南北朝内乱を画期に大きく変容することになる。内乱によって彼らの経済的な基盤であった公家財政が逼迫した余波を受け、朝廷陰陽道は大幅に縮小し、室町期には陰陽道宗家の土御門家(安倍氏の子孫)と勘解由小路家(賀茂氏の子孫)が公卿の地位を獲得したことによって陰陽師は大きな転換期を迎えるのである。