先祖崇拝と政教分離(2/2ページ)
駒澤大名誉教授 洗建氏
我が国の政教分離は信教の自由の制度的保障といわれる。もし、国家が特定の宗教と結びついていれば、憲法で信教の自由を無条件で保障すると宣言していても、その「国家と結びついた宗教」以外の宗教に対して国が不利益な扱いをする結果を招くことは人類史的に明らかである。だから国家の宗教的中立性、非宗教性を確保するために、憲法は国家が宗教と関わることを禁止し、国家と宗教を分離したのである。具体的には、憲法第20条第1項後段でいかなる宗教団体に対しても国が特権を与え、政治上の権力を行使させることを禁止し、同第3項では、国およびその機関が宗教教育その他のいかなる宗教的活動をもしてはならないことを定めている。また、第89条では公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益、維持のために支出し、利用に供することを禁止している。
しかし、宗教が社会的存在である以上、国家が宗教といかなる関わりをも完全に断つことは不可能で、不合理でもあるとして、現実の事案を判断する上での解釈基準として、我が国初の政教分離訴訟である津市地鎮祭事件で、最高裁は「目的・効果基準」を示した。それによると、国家の行う宗教と関わりのある行為のうち、「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果において宗教に対する援助、助長、促進、または圧迫、干渉になるような行為が禁止される」。
この判決を受けて自民党は、憲法改正草案で、国の行為が「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないものはこの限りではない」として、禁止の対象から外す意向を示している。本件のような場合、その宗教性は日本人の大部分が受け入れている先祖崇拝であり、社会習俗として継承されているのだから、これに国が関与しても、特に信教の自由の侵害にはならず、何も問題ないだろうと考える人も多いかも知れない。
しかし、よく考えて頂きたい。古い伝統を持ち、社会に定着している宗教で、習俗と結びついていないものはない。むしろ、一般庶民に受け入れられたから、習俗化したのであり、それだけにその部分こそ、根強く変えがたい宗教的慣習になっているのである。もちろん、宗教に起源を持ちながら宗教性を失い、完全に世俗的慣習になったものも無いわけではない。それは、当初から宗教以外の価値を併せ持っている場合であり、祝祭的性格のもの、行事自体に娯楽的要素がある場合は宗教性を失っても生き残り得る。しかし、宗教性を失っていない場合、いくら習俗化していても、本当に信教の自由に関係ないと言えるかどうか、慎重に検討しなければならない。
人生の節目に行われる冠婚葬祭などの通過儀礼は、伝統宗教のみではなく、キリスト教や新宗教などでも行われる。しかし、習俗化した宗教行事とは食い違う変更を伴うと、その信仰を受け入れることに躊躇いを示し、布教伝道の高い障壁になることがしばしばある。これらは本人のみならず家族、親族、地域住民も関係することが多いからである。
この障壁は新参の宗教には、自らの努力で乗り越えなければならない宿命のようなものである。しかし、習俗の範囲を超えないものだからという理由で、国家が関与し、財政的に優遇することが許されるなら、事態は一変する。それは単なる財政上の優遇を超え、国家に公認された権威ある慣習という印象を生み出し、新参の宗教の努力を無にし、これを妨害する効果を持つからである。
それでは習俗と密接に結びつき、そこに安定した存在基盤を得ている伝統宗教にとって、どのような意味を持つのだろうか。習俗となっていることを理由として、国家が財政的、その他の優遇措置を与えることは有り難い、ということになるのだろうか。短期的な視野ではその弊害は見えにくいかも知れない。しかし、歴史的に見て、政治権力は自らが優遇し、保護した相手が、自由権を主張し、好き勝手に権力にたてつくことを許容するほど、お人良しではない。
現政権もまた、日本学術会議への人事介入問題で、その本性をあらわにした。憲法に学問の自由が保障されているにも関わらず、学問的研究成果に照らして、政府の政策等を批判することは一切許さず、学問を権力に従属させようと試みている。そのために国会審議を経て確立していた総理の任命権に対する解釈を、国会にも知られぬように、密かに勝手な解釈変更をしてまで、学術会議を政権の支配下に置こうとしている。
政教分離の規定は権力のこのような性格に学んで、統治権力が立ち入ることのできない領域を制度として確立しようとしたものである。しかし、政教分離も、国家の非宗教性がしっかり維持されているかどうか、国民が常に見張っていなければならない。宗教にとっての命綱である「自由」が失われる危険は常にあるのである。