感染症をめぐる差別の歴史的構造(2/2ページ)
愛媛大准教授 中川未来氏
一方で、人びとの心に醸成された「乞食遍路」への忌避観念は、政府によるこのような対応に満足せず、時として法的規制の強化を要求する議論も生み出しました。その噴出を促したのがコレラでした。例えば1886年は、19世紀後半の日本列島でコレラが大流行した58年、79年に匹敵するコレラ猖獗の年でした。四国もその例外ではなく、愛媛県(現香川県域を含む)で患者5463人(死者2957人)、高知県で1832人(同1249人)、徳島県で952人(同642人)が発生したとされます。
その渦中の同年5月9日から12日にかけて、高知県の地域紙『土陽新聞』は論説「遍路拒斥すべし乞丐逐攘すべし」を連載し、遍路による乞食行為を強く批判しました。指弾されたのは「老体の者や幼弱の者」も含め社会的経済的背景から漂泊を余儀なくされた遍路です。同紙は遍路に対し「悪病の蔓延」の媒介者、犯罪者予備軍として排除の視線を向け、遍路が「行き倒れ」た際に地域社会へ降りかかる「迷惑」「損害」にも言及しています。
確かに1886年のコレラ流行で隣県愛媛県は全国的な流行の中心地の一つであり、高知県でも患者発生前から予防が呼びかけられていました。同県で患者が確認されたのは5月16日頃であり、20日には県庁内に防疫本部が設置されています。患者発生を受け6月20日には高知市内で「通俗衛生演説会」が急きょ開催され1千余人が参集するなど、人びとの「衛生」意識も急速に高まっていました。
同じく1886年5月に内務省衛生局より発出された「虎列刺病予防消毒心得書」では、コレラ防疫への警察力活用が明文化されています。遍路対策として「州堺の近傍に在る巡査の如き者」による県境封鎖にも言及した『土陽新聞』の議論は、公衆衛生のため警察力の発動を当然視するという当該期の社会的意識と決して無関係ではありません。
そして5月25日より警察は「遍路」「乞丐」の一斉捕縛を開始、高知警察署管内のみで200余人が県域外へ護送、放逐されたと報道されています。うち高知県から愛媛県に送出された「乞食」および愛媛県内で収容された人びとは計1千余人に及び、愛媛県和気郡三津浜(現松山市)から海路中国地方へ護送されました。コレラという感染症の流行下、地域紙の提言した「感染源と疑わしい人びと」の身体を拘束し、居住移転の自由を制限するという措置は警察の裁量権のもと実行に移されたのです。
このような経験を踏まえ、『土陽新聞』は刑事処分化を見据えた法改正による遍路統制の強化を要求しています。しかし現実には違警罪とその後継法令(警察犯処罰令、1908年)は十分な威力を発揮しました。何よりも警察署長の即決による行政処分であるため、機動性が高く融通無碍な運用が可能だったからです。1918年に四国を巡礼した高群逸枝の『娘巡礼記』に描かれた、警察による強権的な「遍路狩り」はその一例です。
それでは、感染症の媒介といった理由で国家の暴力を用い人間を「狩る」ことを容認してしまった社会的意識を、無自覚にであれ問いなおす試みは存在しなかったのでしょうか。これについては、1879年のコレラ流行の際にもお接待として「乞食体」の遍路の止宿を受け入れ続けた愛媛県宇摩郡具定村(現四国中央市)のある家族の姿が示唆的です。
愛媛県の地域紙『海南新聞』の報道では、「悪疫の伝染」を怖れた周囲の諫止に対しこの一家が次のように答えたとされます。「私方には御大師様のお陰で虎列頼(コレラ)は来ません」。社会の風潮を反映し同紙は冷笑的に紹介しているのですが、感染症の大流行の最中に差別のまなざしを向けられた「乞食遍路」へ従来通り宿の提供を続けるという行為は、「感染症をめぐる差別にはくみしない」という信念が確かに存在していたことを示しています。
このように、近代においても長距離を移動し四国に集まり回遊する「乞食遍路」に対しては、地域社会の負担として政策的統制が試みられ、感染症の流行時には強権的な対応の必要性が声高に論じられることもありました。残念ながら私たちは同様の構造が差別を生み出す現状を目の当たりにしています。トラック運転手と家族への不条理な対応は記憶に新しいところです。感染症をめぐる差別は歴史的に形成されたものであり、だからこそ止められることを、今、改めて強く認識すべきなのです。