老死を見つめる経を読む(2/2ページ)
大谷大教授 山本和彦氏
人は現生で作った自分の業にしたがって、来生に行く。自分だけは長生きするだろう、病気にならないだろうと考えても、老いて病気になり死ぬ。たとえ100歳まで生きたとしても、その人は死ぬ。燃えている家を水で消すように、死者に対する悲しみを智慧によって消すべきである。風が綿を吹き払うように、智慧が悲しみを吹き払うだろう。人は煩悩の矢を抜いて、安らぎを得るべきである。
ブッダは繰り返し、すべての者は必ず死ぬと説く。「死」はパーリ語で「マッチャ」であるが、ブッダはこの言葉を人間の意味で使っている。つまりブッダは、人間を死すべきものと定義しているようである。ブッダの説く法は、当たり前のことであるが、凡夫が常に忘れていることである。他人を攻撃すると自分が苦しくなる。欲望を捨てれば心が軽くなる。そして、人は死ぬ。欲望や執着という煩悩の矢を抜けば、安らぎ(涅槃)に至る。
欲望にまみれて生きている人間に対しては、ブッダは欲望を捨てるようにと説く。この俗世間で生きている間は、欲望は苦しみの原因となるからである。欲望が少ない方が、苦しみも少ない。相対的な世界のなかでは、それに合わせて生きることを勧められる。われわれがいま生きている世界には、身体があり言葉がある。それを使って生きている。それを使って、苦しみの少ない生き方をブッダは教える。身体と言葉と心を修養すると苦しみは減る。この世では、われわれは身体を中心に生きている。苦しみとは身体の苦しみである。楽しみとは身体の楽しみである。出生したときに身体を得る。臨終のときに身体を捨てる。
しかし、もうすぐ死ぬ人には欲望を捨てて、楽に生きるようにとは説かない。寿命が尽きる人間に、これから身体や言葉を使って生きる時間は残されていないからである。身体を捨てて行く人間には、ブッダは中道を説く。愛することと愛さないこととの両方を捨てよ、貪ることと貪らないこととの両方を捨てよ、と説く。身体がなくなる人に、苦滅からの身体の楽を説いても意味がない。人は死んだ瞬間に、身体の苦から解放される。身体のない人は、満腹感を求めない。身体のない人に、物欲はない。
身体のない人には、欲望の対象がない。その人は相対的な世界を離れ、絶対的な世界にいる。相対性を離れる道が、中道である。身体のない人は、中道を行く。その主体は、ヒンドゥー教ではアートマン(魂)であるが、仏教ではマナス(意)やチッタ(心)と呼ばれている。生存中でも身体を支配しているのはマナスやチッタと呼ばれる心である。『ダンマパダ』(法句経)の冒頭でブッダは言う。「すべての物事は、心に先導され、心に支配され、心の現れである。汚れた心で語り、行うと、苦しみがその人につきまとう」
若いときは、お金と人間関係が最大の関心事であり、それに基づいて欲望や怒りが生じてくる。それゆえ、欲望と怒りを少なくして生きると苦しみも少なくなる。身体も楽になる。老いると健康が最大の関心事なるが、死に直面している人は、お金や人間関係、さらに健康さえもどうでもよくなる。安らかに身体を離れたいという願望だけがある。安らかとは、仏教では寂滅(ウパシャマ)であり、安穏(クシェーマ)であり、平安(シャーンティ)である。それは言葉を離れることであり、相対を離れることであり、両極端を離れる中道である。人は正しさだけを求めても、安らかに生きることはできない。誤りだけでもそうである。苦楽や愛憎や悲喜という両極端を離れると、人は安らぎを得る。
それではどう実践すればいいのか。『ダンマパダ』の「スッカヴァッガ」(楽しみの章)のなかでブッダは次のように説く。「怨みを抱いている人々のなかで、われらは怨みなく楽しく生きよう」。「悩める人々のなかで、われらは悩みなく楽しく生きよう」。「貪る人々のなかで、われらは貪ることなく楽しく生きよう」。「われらは一物も所有することなく、楽しく生きよう」。「勝敗を捨てて、安らかに生きよう」。「孤独と安らぎと法(真理)を味わい尽くして、苦を離れよう」。「聖者(アーリヤ)と暮らし、愚者に会わないならば、常に楽しい」。「聖者と交われ。月が星の軌道に交わるように」。「われら」とは仏弟子であり、修行に努め励む者たちのことである。ブッダは、われらに楽しく生きよと説いている。