凝然大徳の『八宗綱要』(1/2ページ)
早稲田大教授 大久保良峻氏
今秋700年御遠忌法要が東大寺で営まれる凝然(1240~1321)は華厳教学の大学匠であるが、そのことよりも諸宗兼学の学僧であることが知られているようである。そして、その膨大な撰述の中でも、諸宗の概説書として著された『八宗綱要』は何より有名である。それは、小著であることによる簡便性を有しつつも、各宗の短い解説が極めて密度の濃いものであり、それぞれの宗を尊重するという立脚点から論じられているので、仏教諸宗の概説書として重用されて来たことによる。凝然自らが記した本書の跋文は次のようなものである。
「文永五(1268)年戊辰正月二十九日、予州円明寺西谷に於いて、之を記す。予は一宗の教義すら尚、軌とする所に非ず。余宗の教観、一として知る所無し。唯、名目を挙げて、聊か管見を述ぶ。仍、錯謬極めて多く、正義全く闕けり。諸々の識見有る者、之を質せ。華厳宗沙門凝然生年二十九」
これにより、本書が29歳の時の著作であり、謙遜の語で綴られていることが知られる。確かに、名目の羅列といった感のある著作ではあるので、入門書として一人で読むには少々難儀が伴うことは確かである。しかしながら、その優れた構成は解説を加えることで概説書としての光彩を放つことになるのである。種々の講説書が発刊されたが入手困難なものが多く、現今は平川彰『八宗綱要(上・下)』(仏典講座、大蔵出版)、鎌田茂雄『八宗綱要』(講談社学術文庫)が購読可能なようである。
凝然には応長元(1311)年72歳の時の『三国仏法伝通縁起』3巻の著作がある。これは言わばインド・中国・日本という三国の仏教史書であり、現今の学術水準による史実とは異なるが、当時の状況を伝える重要書である。同書では、中国については、日本の八宗の他に、中国の毘曇・涅槃・地論・浄土・摂論という五宗を加えた十三宗を略説する。
しかしながら、「八宗」という語は、「八宗兼学」が全仏教を習学している学匠の尊称として用いられ、龍樹が八宗の祖と呼ばれるように、仏教全般を意味する語として巷間に流布することになるのである。
『八宗綱要』では先ず三国の仏教について略述した上で、日本の仏教が八宗のみであると述べる。そして、「八宗と言うは、一俱舎宗、二成実宗、三律宗、四法相宗、五三論宗、六天台宗、七華厳宗、八真言宗なり」と八宗の名称を掲出し、更に最初の三宗が小乗、後の五宗が大乗であると規定する。続けて、八宗について順次解説し、最後に付録として八宗外の禅宗と浄土教に論及して、簡略ながらも要説を載せている。
これらの八宗は、南都六宗と平安仏教である天台宗と真言宗とを日本仏教の基軸に据えることを含意するものであり、学派としての意義が尊重されている。従って、四番目の法相宗からは空海の十住心教判における第六住心以後に同順であるとしても、凝然の意図は勝劣・深浅を説くところにはない。各宗独自の秀逸性を認めて論じているのである。
南都六宗の中、倶舎宗と成実宗は、それぞれ法相宗と三論宗の寓宗(付属する宗)とされつつも、年分度者が認められていた。天台宗の最澄は、諸宗の年分度者の必要性を「一目の羅は、鳥を得ること能わず」という故事成語で説いたのである。更に、淳和天皇の時には、律宗、法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗から自宗の教学概要書が進上された。いわゆる天長勅撰六本宗書がそれである。凝然が『八宗綱要』を撰述した前提に、以上のような動向がある。
先ず、俱舎宗は言うまでもなく、世親の『阿毘達磨俱舎論』を研鑽する学派である。そして、成実宗は訶梨跋摩の『成実論』を所依とする。凝然は、両者をそれぞれ「有宗」と「空宗」に大きく分類する。『俱舎論』は仏教学の基礎を知る上での重要典籍であり、凝然は本書を通じて知られる説一切有部という部派の「三世実有・法体恒有」といった教理を紹介する。