コロナ禍に宗教が学ぶもの(1/2ページ)
上智大特任教授 島薗進氏
中国の武漢での新型コロナウイルス感染症(COVID―19)の流行からほぼ1年が経過した。流行はまたたく間に世界各地に広がり、昨年12月1日の時点で、感染者数は6千万人を超え、死者は150万人に及ぼうとしている。日本国内でも感染者数はほぼ15万人に及び、死者は2千人を超えている。
この感染症が経済に及ぼす影響は甚大で、各国でGDPの縮小は顕著であり、その影響を受けて事業継続ができなくなったり、失業したりして貧困に苦しむ人々は少なくない。日本では自殺者の増加が著しい。2020年10月の女性の自殺は19年と比べて約83%、男性の自殺は22%の増加だったという(CNN、昨年12月1日)。
多くの人々を苦難が襲っており、それが長期にわたっている。19年までなら、こういうときにこそ宗教に大きな役割があるという考えが私の脳裏に浮かんだと思う。東日本大震災が東北地方を襲い、2万人近い人命が失われたときには、宗教が注目される機会が多かった。人々の死を悼む集いにおいても、苦難を負った人々への支援活動においても宗教に大きな活動の場があり、さまざまなメディアを通してそれが人々の目にも届く機会が多かった。甚大な災害による苦難とおびただしい喪失による悲嘆に人々が向き合うとき、宗教的な次元がおのずから前景化するように感じられた。
ところが、20年のコロナ禍においては、宗教が人々の支えとなるような働きをする場が見えにくかった。まず、流行の早い時期に韓国などいくつかの国々で、宗教的な集いの場で規模の大きいクラスター(感染者集団)が起こる例が見られた。礼拝等の宗教的集いで人々が集まることを慎む傾向が強まった。カトリック教会のミサへの信者参列も、イスラームのメッカ巡礼者人数も制限された。宗教活動は人々が集まって行うものが多いが、その多くが行えなくなってしまった。
とりわけ衝撃が大きかったのは、死者を送る葬儀等の儀礼が行いにくくなったことだ。新型コロナ感染症に罹患して死亡した場合、その遺体からの感染の恐れから、厳重に遺体を包み、人々が近づかないようにすることが求められた。このため、火葬や土葬の場に立ち会うこともままならず、葬儀もできるだけ少人数で行うような例が増大した。
高齢者や基礎疾患をもつ人の場合、死亡する前、ひいては罹患が恐れられる時期から、近親者が近づきにくい状況が続くことになった。子や孫の世代が高齢の親や祖父母に会うことを慎まざるをえない時期も続いた。罹患し重症化し死が近づく人のいる家族では、高齢の近親者に会うことができない例も少なくない。お別れの時をもつことができなくなっている。それが葬儀まで続くことは、遺された者が死を受け入れる形をもちにくいということだが、これも人類史上、宗教が果たしてきた機能に深く関わる事態だ。
では、宗教はどのような形で、感染症による苦難と対面的な宗教的儀礼の実施困難に対処しようとしているだろうか。一つは、オンライン、あるいはリモートでの儀礼参加を模索するということだ。たとえば、葬儀にオンラインで参加する、オンラインで読経を視聴することも試みられており、それなりのよい感触も得られているようだ。病床にいる高齢者がタブレットで家族と接するようにしている病院もあり、これも同様だ。だが、これらにはおのずから限界がある。からだ全体で同じ場で交流の時を過ごす交流との隔たりは小さくない。
感染症による苦難に対処するという面では、感染症の克服のために祈る、悔い改めの教えを説く、死者や病にある人、また感染症と苦闘している人々のために祈る、ということこそが宗教者、信仰者のできることだという自覚も高められ、その方向に活路を見出している例も世界各地にあるようだ。