荒行堂という修行現場を通して―地下鉄サリン事件から25年⑦(2/2ページ)
正中山遠壽院荒行堂傳師 戸田日晨氏
話は少し逸れますが私共の宗門内においても百日荒行を称して、「世界三大荒行」などと喧伝することがあります。このような感覚も「エゴに支配されている自己中心的思考」を基底として生じるものではないかと捉えることができます。これは「修行を目指す道」とは相反する思考性であると思います。
荒行を志す行僧一人一人のことを考えても、人それぞれの生育環境や生まれ持った気質による「苦しみ。哀しみ」を有することは自然の成り行きともいえます。
私は、荒行堂の門に入り「行」を志す行僧一人一人と接する度に、自己の苦しみ哀しみと向き合い、それを超えて行くことの重要性を強く感じております。
オウム真理教に関しては事件発生前から、謂ゆる「アカデミズム」の方々も色々な形で関わって来られたことを承知していますが、事件発生後、最終的には「尻切れトンボ」で終わり、その後は一切関係が無かったかのように「梨の礫」で通す研究者がいます。また一方では研究者自身がこの教団に関わったことにより、結果的にこのような宗教集団を世に周知させたと考えられる経緯も有りました。
私が現在自己課題としているテーマが有ります。それは能率、効率を最優先とする謂ゆる「近代合理主義」、またそれと併立する「二項対立的な思考概念」、即ち「善と悪、正と邪、支配と被支配」など、また「神を信ずる信じない」ということも含めた「対立思考」を乗り超えて進む道は何か、ということです。
私共「行の世界」の体験から培われる重要な要素として、「文字情報」とは異なる「直感情報」というものが考えられ、この「直感力」または「感応力」という目には見えない波動的な存在が、実は「近代合理、二項対立」的な思考概念を否定するのではなく、むしろステップアップした形で現実世界に対応し得る重要な方途ではないか、と考えております。
そして、この「直感情報」の獲得のためには、私共の荒行に限らず、理屈抜きで「行ずる」その場に身を投じなければ得られない、という現実があります。そして「行ずる」という行為の根本には、「懺悔」という滅罪の心根を奥底に持つことが一番大切なことは云うまでもありません。
この「身体技法」としての「伝統行法」には、「返復動作」の繰り返し、という特徴がありますが、謂ゆる「霊的世界への参入」というようなことも、ここが要点ではないでしょうか。
更に「直感情報」とは、自身の傲り、高ぶりの「慢心」に気づき、それを払い落として進む過程において、「真の自己」を自ら自然に敬う心が生じた時に得られるものだと思います。「仏の道」にも通ずる道理ともいえるのではないでしょうか。
私が最近再読している本に、無教会主義キリスト者である内村鑑三の『代表的日本人』があり、その中には日蓮聖人と共に、江戸期の思想家中江藤樹が描かれています。
その中で藤樹の言葉(註2)として、「谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない」とあります。この藤樹の言わんとする所を、私は「荒行堂」という「行の現場」から得た「直感的共鳴」のことばとして、「修行」という人間行為の持つ「落とし穴」に落ち入らぬ様、自省の思いと共に心の奥底に留め置きたいと強く思念しています。
合掌
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(註1)「遠壽院流」 『仏教宗派辞典』 金岡秀友編(東京堂出版)
(註2)藤樹の言葉 『代表的日本人』 内村鑑三著、鈴木範久訳(岩波文庫)