遺族、悲しみから回復への道程―地下鉄サリン事件から25年①(1/2ページ)
地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人 高橋シズヱ氏
1995年はオウム真理教による地下鉄サリン事件の年であり、それをきっかけに同年末には宗教法人法改正が行われるなど、「宗教とは何か」が問われた年だった。2018年7月には教祖麻原彰晃をはじめ幹部13人の死刑が執行され、オウム真理教の一連の犯罪は歴史に埋もれる道をたどろうとしているようにも見える。しかし、いま現在の私たちにも深く関わるはずの問題が、わずかに手を付けられたのみで放置されている。25年の時の経過とともに事件が風化するに任せるわけにはいかない(10回連載の予定)。
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地下鉄サリン事件当日、私は銀行でパート勤務についていた。営団地下鉄霞ケ関駅の職員だった夫とは結婚記念日に旅行する予定だったので、この日、泊まり勤務明けの帰りがけに旅行のパンフレットをもらってきてもらおうと、朝一で駅に電話をしたが、全然つながらなかった。まもなく夫が病院に搬送されたという連絡があった。銀行のロビーの電光掲示板で、日比谷線で事故があったことは見ていたが、まさか霞ケ関駅でも何かが起きているとは思ってもいなかった。
急いで病院に駆けつけたが、夫はすでに冷たくなっていた。どうしてこんなことになってしまったのか、事態がのみ込めなかった。翌日、司法解剖が行われた。待機していた部屋には読み散らかされた何紙もの新聞があって、「サリン」とか「テロ」という大きな文字が躍っていた。前年の松本サリン事件のニュースでサリンが猛毒の化学兵器だということは知っていたが、オウム真理教のことは知らなかった。
事件以来、毎日メディアが押しかけてきて、夫の生活や趣味など聞かれたが、事件については答えようがなかった。強制捜査後、信者が続々と逮捕され、テレビでは幹部信者が言いたい放題で会見する様子が映し出され、都庁小包爆弾事件や信者刺殺事件などが相次ぎ、事態は混迷していた。私には、ただ夫が殺された悲しみと怒りがあるだけだった。やがて刑事裁判が始まると、どうして夫が死ぬことになったのか知りたくて、傍聴に通うようになった。
初公判で見た教祖・麻原には嫌悪感をもち、なぜ多くの人が盲信してしまったのか、俄には信じられなかった。法廷での教祖らしからぬ麻原の言動に、次第に事件に関与した弟子たちの心が離れていくのは当然の成り行きだった。麻原の呪縛を恐れず対決姿勢を示した弟子たちの証言から、麻原の身勝手な教義で信者を拘束する仕組みがわかった。教団内で起きた殺人から犯罪行為がエスカレートし、違法薬物を製造して修行に利用するなど、宗教法人どころか殺人集団だと思った。
夫がサリンの包みを処理した千代田線でサリンを撒いた実行犯は、有能な医師だった林郁夫だった。事件から2カ月もしないうちに麻原のまやかしに気付き、法廷で夫の名前を挙げ謝罪するのを聴き、私は涙をこらえきれなかった。傍聴席にいたジャーナリストの江川紹子さんが横に来て声をかけてくれた。証人出廷の召喚状がきたが、事実を証言する林郁夫の捨て身の態度や反省の涙をどう評価したら良いのか、極刑を望んでいた気持ちも揺らぎ、結局、上申書を提出して欠席した。