新型コロナウイルスとの共存の時代(1/2ページ)
天理大おやさと研究所教授 金子昭氏
突如として、時代はウイズ・コロナの時代に入った。人類は否応なく新型コロナウイルスとの共存という苦しい膠着戦を強いられている。
宗教界も例外ではない。これまで良しとされてきた活動を自粛せざるを得なくなった。その痛手は大きい。一つの場所に大勢が集まって法要や礼拝を営むことは、現状では不可能である。集会やイベントなら中止や縮小開催、オンライン開催もやむを得ないが、大切な宗教行事をそのように行うことは、どの宗教にとっても苦渋の決断だ。
こうした状況は今後もずっと続くことが予想される。メガチャーチ的な大規模礼拝や集会を良しとする発想自体、もしかしたら放棄せざるを得なくなるかもしれない。だとすれば、これからは諸宗教がこの時代環境に適応しつつ、新たな活動のあり方、組織運営のあり方をどう再編していくことかが問われてこよう。ウイズ・コロナの時代における宗教界のレジリエンス(復活力)が求められる。
ここでは、(1)檀信徒への臨床対応、(2)宗門内外に向けた情報発信、(3)人々のための救済実践の3点でこの問題を考えてみたい。
現在、どの宗教もオンラインに活路を見いだそうとしているが、なかなか困難な道のりである。そもそも、法要や礼拝では、しめやかな雰囲気にひたり、五感全体で神仏の臨在を体感することが大きな要素を占めるからだ。在宅してモニター画面を見るだけならば、テレビ映画を眺めているのと変わりがない。たとえ今後バーチャルリアリティ技術により臨場感を高めても、それはやはり臨場「感」であり、実際の儀礼の場に身をもって臨んでいるわけではない。モニター越しでの宗教行事への参加の物足りなさ、隔靴掻痒なところはどうしても残っていくだろう。
しかし、これは良いチャンスでもある。これまで、高齢や病気のために寺院や教会に通えない檀家や信者のために、電話や手紙で交流を行う試みが行われてきた。たとえ互いの姿は見えなくても、声を通じて息遣いが伝わり、自筆の文章を通じて心遣いが伝わる。浄土真宗本願寺派善正寺の石川欣也前住職は、留守番電話に短い法話を吹き込んで、かけてきた人に聴聞してもらうという活動を続けてきた。この「法話のダイヤル」は石川前住職がご高齢のために現在は行われていないが、実に30年間続いたのだった。
寺院(ホーム)での活動がそのまま檀信徒の自宅(ホーム)へと直接つながる。この発想は、ネット配信によるオンライン法話の先駆けになるものだ。ある意味、リアルな動画を伴わず、電話の音声だけ、自筆の文字だけというアナログ方式のほうが、より信心を深めていくことができるとも言える。というのも、これを受ける檀信徒の側が全くの受け身にならず、自ら想像力で足りない部分を補うからである。電話や手紙、インターネット、これらはあくまでツールにすぎない。大切なことは、これらのツールをいかに有効活用して、檀信徒との心と心の繋がりを持つかということなのである。
この度のコロナ禍を教えの上でどう受け止め、これにどう対応すべきか。数多くの教団・宗門ではそれぞれのホームページ等で情報発信を行っている。これら宗教界の対応を網羅的に概観したのは、宗教情報センターの藤山みどり氏である(5月17日、同センター配信記事)。藤山氏は、宗教界の一連の情報発信を評価しつつも、発せられたメッセージは一読しただけでは分かりづらいと、辛口のコメントを行っている。