達磨宗新出史料『心根決疑章』の発見(2/2ページ)
駒澤大専任講師 舘隆志氏
一方、目録に記された奥書には、「仏地房」の名は記されていなかった(この点は国文学研究資料館本も同様である)。しかしながら、ここに「覚宴」とある記述に注目したい。なぜならば、「宴」のくずし字と、「晏」のくずし字は極めて似ているからである。「宴」「晏」の、誤写や誤読の可能性は十分に考えられる。この情報から『心根決疑章』が、仏地房覚晏の著述である可能性はより高まった。
国文学研究資料館所蔵本は画像が公開されていたため、内容をすぐに確認することができた。内容は極めて難解であったが、刊本の著者名は「覚宴」と明記されていた。しかしながら、冒頭文中に「禅家」の文字が見られ、また文中に『宗鏡録』が用いられているなど、禅との関わりがある書物であることが即座に確認できた。特に、『宗鏡録』については、達磨宗史料の『成等正覚論』が、『宗鏡録』に基づく記述を多く含むため、達磨宗の使用典籍の一つと考えられており、その撰述年時と合わせ、『心根決疑章』が達磨宗史料である可能性を高めるものであった。
さらに良忠の『観念法門私記』で引用された一文と同文を確認することできた。すなわち、浄土宗で伝えられたとみられる仏地房『心根決疑章』と、覚宴『心根決疑章』は同名別本ではなく、同じ史料ということができるだろう。そして、承久3年の時点での禅との関わりという点からしても、『心根決疑章』が、達磨宗の仏地房覚晏が撰述した書籍である可能性がより高まったのである。
こうして、平成30年(2018)11月6日に、達磨宗研究の第一人者である金沢文庫元文庫長の高橋秀栄立ち会いで金沢文庫において『心根決疑章』の影印本を調査した。現在、金沢文庫本の『心根決疑章』は、国宝に指定されており、現物を容易に見ることはできないため、影印本の調査となっている。
この調査に際して、内題の「心根決疑章」の下に、目録にも、国文研本の刊本にもない文字が、「扶桑第二相承沙門覚宴述」と記されていたことが分かった。撰述者は目録通り「覚宴」と記されているが、「扶桑第二相承沙門」というのは極めて重要な情報であった。
この時点で、中国僧から禅の法脈を受け嗣いでいたのは、覚阿、栄西、能忍である。覚阿については、「覚」の字の一致は気になるが、弟子を残したという情報は伝えられていない。また、栄西門流には「覚宴」に該当する僧侶はいない。
したがって、以上の状況は、『心根決疑章』の著者として、『四部口筆』に記された「仏地房」と、金沢文庫所蔵『心根決疑章』に記された「覚宴」は、仏地房覚晏その人であることを示している。すなわち、『心根決疑章』は達磨宗二祖である仏地房覚晏の著述であることが明らかとなった。このように、『心根決疑章』は栄西を調査する過程で、偶然発見されることになったのである。
ちなみに、覚晏に参じた僧侶として孤雲懐奘がいる。中国で修行し禅の法脈を受け嗣いだ道元が日本に帰国するに及び、懐奘をはじめ、達磨宗の覚晏の門下・門流が集団で道元に参じた。その後、この系統は道元の初期僧団を支え、懐奘は後に道元の法を嗣いで永平寺の二世となった。そして、道元下四世の瑩山紹瑾の時代に達磨宗の法脈は曹洞宗の中に完全に吸収されていったのである。『心根決疑章』を中心とした達磨宗の考察は、日本における初期曹洞宗の解明に繋がるものとなろう。
『心根決疑章』は達磨宗二世、「扶桑第二相承沙門」を自称する覚晏の著述であり、鎌倉前期の承久3年に撰述されたものである。そのため、達磨宗僧侶による著述として撰述年や撰者の明らかな唯一の現存例が『心根決疑章』(1221年)と言える。さらに、『心根決疑章』は、栄西の『興禅護国論』(1198年)と道元の『普勧坐禅儀』(1227年)の間に位置づけることができるため、日本における二番目に古い禅籍である。したがって、現在のところ、鎌倉前期の達磨宗の思想や状況を知り得るのに最も相応しい史料と言えるのである。
なお、筆者を研究代表者、駒澤大学教授吉村誠、同准教授山口弘江、花園大学教授師茂樹、同准教授柳幹康を共同研究者として、JSPS科研費JP20K00060の助成を受け、金沢文庫元文庫長高橋秀栄を研究協力者に招いて、『心根決疑章』の読解を進めている。
達磨宗の研究は、『心根決疑章』の存在や、その内容に基づいて、再び考察し直されなければならない。