謎の絵師・俵屋宗達とは(2/2ページ)
日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏
また頂妙寺墓所に現存する俵屋喜多川一門の供養塔に元祖宗利として記載される人物について「喜多川宗家歴代譜」には「元祖宗利 慶長七年五月十日 八十五歳 俗名蓮池平右衛門秀明」と記載されており、これまで蓮池秀明と喜多川宗利は同一人物であるとされてきました。しかし今回見いだした「妙法堂過去帳」の「十日 喜多川宗利 常通父 八月 十三年忌慶長十二年丁未八月也」の記載は喜多川宗利の命日が1595(文禄4)年8月10日であることを教えていて、「喜多川宗家歴代譜」に1602(慶長7)年5月10日に85歳で没したとされている蓮池秀明とは別人であることが確認されました。
この事実に蓮池秀明の生年が1517(永正14)年であり、蓮池常知の生年は40(天文9)年であると考えられること。蓮池常知、喜多川宗利の没年がごく近いことに加えて76(天正4)年には「頂妙寺 銀二枚 常知」「頂妙寺 銀八匁 喜多川宗利」として両人が共に中小川の住人として勧進に応じていること等を考え合わせて蓮池秀明と喜多川宗利、蓮池常知の間にも親子関係を類推しました。さらに蓮池秀明は子息の常知に俵屋蓮池宗家を継承させるに加えて宗利に同じ「大舎人座」の座衆であった喜多川家を継承させたと考えました。こうして新たに俵屋の屋号を冠した喜多川家が興された事実をもって喜多川宗利が元祖宗利とされていると考えるに至りました。
さらに「喜多川宗家歴代譜」には「常與日利 寛永五年九月六日 二祖」との記載があり、喜多川宗利の子息に第二祖としての喜多川常與が在ったことを伝えています。しかしながら「妙法堂過去帳」には「喜多川宗利 常通父」との記載もあり、喜多川宗利には常與の他に常通という息子があったことを教えています。これまで俵屋喜多川宗家の系譜に常通という人物があったこともまた全く知られていませんでした。喜多川常與の没年は1628(寛永5)年であり、現存する作品群の年代研究によって俵屋宗達の没年もまた寛永年間(1624~45)の中ごろと推測されていることから、この喜多川常通という人物を俵屋宗達に比定してみました。
この喜多川常通についての記載が「喜多川宗家歴代譜」に無いことから、常通という人物は喜多川宗利の子息として喜多川宗家に生を受け、他家に養子に出た人物ではないかと推測できます。俵屋喜多川一門の供養塔では喜多川宗家の系譜に在る人物の法名は供養塔正面に刻され、俵屋一門ではあるものの宗家の系譜の外にあると思われる人物の法名は供養塔右側面に刻されています。そして供養塔右側面には宗達なる法名が刻されている事実が在ります。
加えて俵屋喜多川宗家の家職は現在に至るも織屋であり、俵屋蓮池一門では織屋に加えて絵屋も家職としていました。俵屋宗達が絵屋工房を主宰した絵師であったことから、俵屋蓮池常知は常有をして蓮池宗家の織屋の家職を引き継ぐとともに、喜多川宗家から甥にあたる喜多川常通を養子に迎えることで一門の一方の家職である絵屋工房を継承させたと考えられます。そして蓮池常有が平右衛門宗和を名乗ったように後年入道名宗達を授与された常通は、絵屋俵屋の当主宗達、俵屋宗達と通称されるに至ったと考えた次第です。
一門の系図は本阿弥光悦を始め俵屋の織物工房などにも広く自身のデザインを提供していた意匠家としての俵屋宗達の姿も浮かび上がらせます。後年尾形光琳によって継承され、やがて光派・琳派と総称される日本独特の意匠形式の誕生には濃密な日蓮法華衆のネットワークが伏在していたのです。