釈尊伝研究と釈尊教団―釈尊教団形成史と釈尊の生涯①(1/2ページ)
東洋大名誉教授 森章司氏
私たち「釈尊伝研究会」は昨年(令和元年)の11月16日に「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の完成報告会を催し、その場で『釈尊および釈尊教団形成史年表』と『釈尊の生涯にそって配列した事績別原始仏教聖典総覧』を発表した。これらは平成4年から始めて昨年までの28年間の研究の総決算書というべきものである。そして今、「中外日報」紙上で、そのメンバーそれぞれが担当した研究領域を中心に、そのエッセンスというべきものを報告させていただく機会をいただいた。第1回は研究代表者として、私がこの研究の概略を記させていただく。
ところで、今さらなぜ28年間もかけて釈尊の伝記研究かと問われるかもしれない。実は、仏教2500年の歴史の中で、釈尊のブッダとしての45年間の活動を編年史風に記述した釈尊の伝記というものは存在しないのである。原始仏教聖典と呼ばれている漢訳・パーリあわせて1万数千に上る経蔵・律蔵に含まれる文献は釈尊の言行録なのであるが、その全ては「如是我聞。一時仏在舎衛国祇樹給孤独園」というような形で始まり、釈尊が「どこで」「誰に」「何をした」ということは詳細に記されているにかかわらず、「いつ」だけは「一時(あるとき)」と示されているだけであって、具体的にそれがいつのことであるかが分からない。そのため釈尊のブッダとしての一生の中で、どんなことがあったかは知られるにかかわらず、これを時系列にそって編集することができなかったのである。それでも、かろうじてその成道場面と入滅場面はおのずからにして、その「時」が知られるから、今まで「釈尊伝」を標榜する経典も現代の研究者の著作も、その場面しか記されていなかった。これではプロローグとエピローグをもって釈尊の伝記というに等しい。
従ってわれわれの研究は端的に言えば、この原始仏教聖典の「一時」が釈尊の何歳のことであったかを推定することであった。しかし推定とはいえ、その方法論と手続きは学問的批判に堪えられるものでなければならない。具体的な作業は聖典の記述の行間を読み解くことであったといってよいが、それには釈尊やその弟子たちが毎日の生活をどのように過ごし(この連載の第5回に記す)、年間の定例行事にはどのようなものがあり、布教の旅はどのようになされたかといった、伝記とは直接関係のないことを知ることが必要であった。
そのためにわれわれは28年間のほぼ4分の3をこのような研究に注いだが、その一つが釈尊教団形成史の研究である。教団は「ローマは一日にしてならず」のことわざどおりに、まず土台の上に基礎を築き、その上に柱を立て梁をわたして、その後に壁や屋根をつけるというような一つ一つの工程が積み重なって初めてできあがったのである。土台や柱がなくして、壁や屋根が築かれるということはあり得ない。だからこの過程を検証することは比較的にたやすい。そしてこの形成史に釈尊の事績を重ねてやれば、釈尊の一つ一つの事績の年度も推定されてくるということになる。
われわれはこの研究の成果を本稿のテーマと同じ「釈尊教団形成史と釈尊の生涯」という書物にまとめたいと考えており、現時点での構想は以下のとおりとなっている。第1期:釈尊教団形成前史/第2期:釈尊教団の成立(マガダ国の仏教)/第3期:バラモン教世界への進出(コーサラ国の仏教)/第4期:釈尊教団の発展(仏教中国の仏教)/第5期:弟子たちによる布教(辺国の仏教)/第6期:サンガ内の紛争と分裂(釈尊教団の既成化)/第7期:晩年の釈尊とサンガへの遺言/第8期:釈迦教から仏教へ――である。