井筒俊彦のオットー解釈 ―宗教の深みへの探究―(1/2ページ)
天理大教授 澤井義次氏
現代の宗教学において、ルードルフ・オットー(1869~1937)の名は、宗教学の古典的名著『聖なるもの』の著者として広く知られている。オットーの宗教論は、これまで長年のあいだ、世界的に多くの研究者たちによっていろいろと議論されてきた。東洋の伝統的な宗教思想を哲学的意味論の立場から捉え直そうとした井筒俊彦(1914~93)も、そうした研究者の一人であった。このエッセーは、近年、独自の「東洋哲学」構想で注目されている井筒が、オットーの宗教論をどのように解釈したのかについて考察しようとするものである。
オットーはドイツのマールブルク大学で組織神学の教授であった。彼はルター派神学者で宗教哲学者でもあった。キリスト教以外の宗教では、特にヒンドゥー教に注目して比較宗教研究もおこなったことでも知られる。オットーがドイツ語で『聖なるもの』を著したのは1917年のことであった。その著書は20世紀の宗教学に大きな足跡を残し、今日もなお世界的に大きな影響を与えている。その著書が英訳されたのは23年で、邦訳の出版は27年であった。
イスラーム哲学・東洋思想の研究者であった井筒が、初めて具体的にオットーに言及したのは、『神秘哲学』(49年)においてであった。その著書は井筒哲学における初期の代表的著作であった。その著書での中心的な構想は、晩年の主著『意識と本質』に至るまで、井筒哲学を貫いている。井筒は晩年に至るまで、オットーにしばしば言及している。
井筒は『神秘哲学』の中で、オットーが神秘主義の基本形態を、「神を魂の深奥に求める『魂・神秘主義』」と「神を絶対超越者として無限の彼方に尋ねる『神・神秘主義』」に区別したことに注目した。「神秘主義」の用語は、古典ギリシア語を語源とするが、18世紀から19世紀にかけて、宗教現象や宗教思想を理解するうえで、宗教研究における重要な概念として広く用いられてきた。
オットーは『西と東の神秘主義』において、「時代に関わりなく、歴史にも関わりなく神秘主義は常に同じ」であると言う。たとえ言語が異なっていても、神秘主義は「いつでも互いに交換が可能である」という。オットーは人類が「共通の宗教感情」を共有しており、東洋と西洋の宗教に類似性があることを説いた。このようにオットーは、人間が普遍的な宗教性を共有していると考えたのだ。
オットーの神秘主義の類型、すなわち「魂・神秘主義」と「神・神秘主義」は、宗教学的にみれば、全く対蹠的な性格を示す。この点について井筒は、それらは「本質的には同一事態を目指す精神発展の二側面」にすぎないと言う。オットーが区別した「魂・神秘主義」と「神・神秘主義」は、井筒によれば、本質的に「同じもの」であって、「なんら優劣の差違は存しない」という。オットーも井筒も、「魂・神秘主義」と「神・神秘主義」は具体的な言語表現こそ異なるが、それらの本質は同じであると捉えた。
ところが、オットーは、世界の諸宗教と比較するとき、キリスト教が最も優れていると言う。キリスト教神学の立場から、キリスト教の概念が卓越した明白さや明瞭さ、さらに豊かさをもっていると彼は言う。「合理的要素と非合理的要素の結びつき」という宗教の尺度に照らせば、キリスト教は合理的要素と非合理的要素が「健全で完全な調和」のもとにあるというのだ。