『本迹同異決 会本』刊行とその意義(1/2ページ)
法華宗(陣門流)教学部長 布施義高氏
平成30年12月、法華宗(陣門流)では、宗門の総力を挙げて門祖・円光坊日陣聖人(1339~1419、以下・門祖)六百御遠忌報恩記念出版『本迹同異決 会本』上下2巻(宗務院刊)を刊行した。
門祖が活躍した室町時代の日蓮教学界は、宗祖日蓮聖人(1222~82、以下・宗祖)本来の本門中心の法華経観よりも、天台教学を尊重し実質的な核とする学風が主潮を形成していた。そうした中、師の妙竜院日静師より越後・本成寺を譲与された門祖は応永4年(1397)、上洛し京都六条本国寺にて宗祖の本義に立ち返るべきことの重要性を高唱された。当時の本国寺は、同門後輩の建立院日伝師(1341~1409)が日静師から法灯を継承(第5世)していた。が、門祖の進言は容れられず、逆に8カ年に及ぶ本国寺側との本迹論争が展開することとなった。この論争は、主に門祖(日陣)と日伝師との間で行われたことから「陣伝論争」とも呼ばれる。
応永11年、論争に幕を引くべく、日伝師は比叡山の学僧・大智院の工案を取り入れ、門祖とその門弟への追放状を盛り込んだ『本迹難(五十五箇条難勢)』(以下、『難勢』)を作成。翌年2月、同書が本成寺へ到来し、ここに陣伝両聖の訣別が決定的なものとなった。応永12年5月に完成した『本迹同異決(本国寺所立本迹難勢日陣会之)』(以下、『同異決』)は、『難勢』への回答書として編まれた門祖の講義録であり、今日でも法華宗(陣門流)では門祖の主著として最重要の指南書に位置付けている。
ところで、日蓮教学史上の本迹論争は、法華経における本迹の法門を、一致(もしくは一体)と結論づけるか、勝劣に軸を置くかを主要な論点とし、室町期以降、極めて複雑煩瑣な史的展開を見るに至った。
陣伝論争は、特に体玄義の捉え方にその核心が求められ、本迹論史上、特筆すべきフェーズを示している。
当時の本国寺側の主張は、教学的基盤として中国原始天台教学に重きを置き、そこから一往勝劣再往一致説を導出するものであった。具には、独特な《約宗勝劣(一往)・約体一致(再往)》説を宣揚し、宗祖の本門中心の法華経観を一往の範疇に統べるという本迹一致論であった。
一方、門祖は『開目抄』『観心本尊抄』を中心とする宗祖遺文に則り、殊に「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(『観心本尊抄』)の意義を本迹論上で発揮し、本門寿量品の発迹顕本によって法華経の根本真理(諸法実相・一念三千)の真実性が詮顕されると見るところに宗祖教学の基底を洞察。宗祖の法華経受容態度の特徴である教相主義の立場と、五重玄義全体の構造を見据えながら本門法華教学の体系化を志した。
門祖の目線は、専ら「宗祖の眼」に基づく台当異目(天台教学と日蓮教学の異目)の確立に存したといえ、その根本真理論は、近現代の学術的研究の中でも高い評価を得ている(望月歓厚「本迹論と日蓮宗の分派」・執行海秀『日蓮宗教学史』等参照)。
総じて、陣伝論争は、その後に極めて煩瑣な展開を見せる日蓮教学史上の本迹論の学説史の中で、本格的本迹論争の嚆矢に位置付けられよう。そして、今日的な日蓮教学研鑽の場面でも、教学研鑽の方法論の相違が全く異質な日蓮教学理解をもたらすことを示す、一つの重要な史的先例の意義を有すると思われる。
『同異決』は、大正14年刊行『日蓮宗宗学全書』第7巻〈法華宗《旧称本成寺派》部〉に第一条~第二十四条、昭和37年刊行同第23巻〈史伝旧記部〉に第二十五条~第五十五条が収録されたことにより斯界に広くその全貌が知られることとなった。
一方、『難勢』は昭和55年の日蓮大聖人七百御遠忌記念事業出版『法華宗全書』の教義篇第3巻に収録されたことによって初めて公開が果たされた。その解読翻刻は、本宗の鈴木正厳師(現宗学研究所顧問)が手掛けられ、大変なご尽力に依り公刊を成し遂げたものであった。