『大乗起信論』と一元的世界観(2/2ページ)
仏典翻訳者 大竹晋氏
現実に、『大乗起信論』からは、凡夫はすでに真如のうちにいる以上もともと悟っていると説く、修行軽視の学説が生まれた。
中国においては、唐の偽経『円覚経』(8世紀初頭)に次のようにある。
善男子よ、〔あらゆる者には〕悟っていることが完成されているゆえに、「菩薩は法によって縛られもせず、法から脱がれることを求めもせず、輪廻を厭いもせず、涅槃を愛しもせず、持戒を敬いもせず、破戒を憎みもせず、長期修行者を重んじもせず、初心者を軽んじもしない」と知るべきである。それはなぜかというならば、あらゆる者は悟っているからである。
おそらく『円覚経』のような説に対する批判と考えられるが、唐の偽経『楞厳経』(8世紀初頭)においては、天魔に取り憑かれた人々の説として次のようにある(文中、「法身」とあるのは真如を指す)。
これらの人々は「仏の涅槃や菩提や法身は、目の前にあるわが肉体の上にある。父から子へと代々生まれてきたことこそが、法身が常住かつ途絶えないことである」と思い込む。(巻九)
これら愚かで惑わされている人々は菩薩となってその心を推し進め、仏の律儀(戒)を破り、貪欲を潜行させ、口で好んで「眼耳鼻舌はいずれも浄土である。男女の性器は菩提や涅槃という真の場所である」と言う。(巻九)
日本においては、『大乗起信論』にもとづいて天台宗において発生した本覚思想(誰でももともと悟っているという思想)の文献、『真如観』(13世紀)に次のようにある。
今日よりのちは、わが心こそ真如であると知り、悪業や煩悩も〔極楽往生にとって〕障りとならず、名声や利得も却って仏果たる菩提にとって備えとなる以上、ただただ破戒無慙であり懈怠嬾惰であるにすぎなくても、もしつねに真如を観じて忘れることがないならば、悪業や煩悩を極楽往生にとって障りと思ってはならない。
これらはいずれも『大乗起信論』の一元的世界観にもとづく修行軽視(特に戒の軽視)である。
ただし、『大乗起信論』そのものは修行軽視ではない。たとえあらゆる法は一なる真如であるにせよ、そのことは、戒を始めとする修行によってあらゆる法を一なる真如に還元しないかぎり、本当にはわからない。それゆえに、同論は修行を勧めている。
日本においても、たとえば、曹洞宗の祖、道元(1200~53)はそのことを正しく理解していた。道元は『大乗起信論』の一元的世界観に立って、「草木などがどうして真如・仏性でないはずがあろうか」(『正法眼蔵』発菩提心)と、あらゆる法が真如であることを認めたが、それでもなお、修行を勧めた。たとえわれわれはもともと真如を証得しているにせよ、それは修行によってはじめてわかる。彼はこのことを「修証一等」(修行イコール証得。『弁道話』)と呼んだ。
なお、一元的世界観に立つかぎり、凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性は常にある。近代の曹洞宗においても、坐禅する凡夫はすでに仏(聖者)であると信じ、「坐禅が成仏である」(『禅談』)と説いた沢木興道(1880~1965)が現われた。一元的世界観は、一歩間違えば、観念的遊戯である「仏ごっこ」に堕するのである。興道の説の問題点については、拙著、新潮選書『「悟り体験」を読む』(2019年11月)において触れた。
ただし、その点に慎重な扱いを期するかぎり、『大乗起信論』は決して無益ではない。むしろ、古来、同論に裨益された修行者は少なくない。
近世の京都に日蓮宗の学僧がいた。彼は学問の限界を慨き、求道の末、臨済宗の建仁寺において『大乗起信論』の一文を見て開悟した。臨済宗に移った彼は、1599年9月1日、禅定のさなかに中国禅の第六祖、曹溪慧能(638~713)が、黄檗宗の祖、黄檗希運(?~850)と臨済宗の祖、臨済義玄(?~867)を伴って現われたのに相見し、問答の末、ついに慧能から印可された。没後400年を迎えた臨済宗興聖寺派の祖、虚応円耳(1559~1619)がその人である(『続日本高僧伝』)。たとえインド大乗仏教の論ではないにせよ、『大乗起信論』は今後も真摯な修行者に示唆を与え続けるであろう。