現代小説と寺院絵画~幽霊画の伝承をてがかりに~(2/2ページ)
京都精華大教授 堤邦彦氏
元旦にはなはだふさわしくない不吉な出来事は、国許の妻の身に何か良からぬことが起きた凶兆ではあるまいかと、侍は気が気ではなかった。ところが、運悪くこの年は例年にない大雪で飛脚の往来もままならず、ひとり故郷を案じながら不安な日々を過ごすほかなかった。
ある晩のこと、夢の枕に凄まじい形相の妻が幽鬼のようないでたちで現れ出るにおよんで、伊左衛門はもはやただごとではないと直感した。はたして16日になって国許から悪い知らせがとどく。元日の朝、正月の雑煮を祝おうとした妻が急死したのだ。しかもその刻限は伊左衛門が画幅を斬った、ちょうどその時であった。
まさに不思議千万というほかない。
かくして伊左衛門は愛妻の幽霊姿を絵に描き懇ろに菩提を弔った。この夫人の法名を「梅香院円室自寒大姉」という。また、この異変ののち、千秋家は正月を迎えても16日までは雑煮を食べないしきたりをかたく守ることとなった。
天保14(1843)年6月8日に伊左衛門が亡くなり、後を嗣いだ千秋三郎兵衛の代になると、座敷に幽霊画があるのは陰気で困るということで、鶴林寺に納めるにいたった。
由来書の本文は、幽霊画が鶴林寺の宝物となったことにつづけ「之で話は一段落だが、余話を一つ語らねば完結しない」とことわり、次の奇談に連鎖していく。
偖、三郎兵衛の次が十一代千秋勝左衛門といって此の人は御維新の大変事に出会した。彼は生来の大酒呑であったが、明治七年祖先以来の禅宗をすてて神道になり、寺へも墓へも寄りつかなくなった。
其の子が千秋彦次郎、妻は播州姫路生れの者で名をリトといった。
先祖の宗旨を捨てて神道に改宗し累代の墓所に寄りつかなくなった11代勝左衛門――。これ以降、たび重なる不幸が千秋家をおそう。
彦次郎とリトには3人の男子がいた。長男の彦之助は東京に移ったが、関東大震災の後に「神経病」に罹り、「亡霊の為、墓が無い、僕の寺はどこやらなア、金沢へ行きたい」と訳のわからぬ口走りの末に大正14(1925)年7月25日に死去。
次男の彦次は昭和3(1928)年8月に嫁を迎えるが、婚礼の晩に新婦の夢に白縞の単衣を着てハーモニカを持った青年が現れる。その容貌は結婚式の1カ月前に21歳で変死した三男の彦三にそっくりであった。
夫をなくして神戸に暮らしていたリトは、息子二人の夭折と嫁の悪夢を思うにつけても、郷里の菩提寺を粗略にしたことが悔やまれてならない。八方手を尽くし金沢に住んでいた夫の乳母を探しあて、鶴林寺の所在を知ると、さっそく亡き人の骨壷四つを抱いて寺を訪れたのが昭和5(1930)年のこと。六十ばかりになっていたリトは、当時の住職・戸田禅苗に懴悔し、夫や子供、先祖代々の冥福を祈るとともに「幽霊の掛物」をいまの如くに表装しなおして懇ろに供養したという。
さて、千秋家縁故の幽霊画の由来は文化9年正月に起きた伊左衛門寛定と妻の絵の奇談を発端として、子孫たちの行く末をつまびらかにしながら、いまも鶴林寺に寛定夫人の幽霊画が伝存するにいたった因縁を解き明かしておわる。
一方において、幽霊画の所蔵者である鶴林寺サイドの視点に立ってみれば、千秋家のライフヒストリーは別の顔をもつことになる。さまざまな不幸を合縁奇縁とした千秋家の旧寺への回帰と幽霊画の因縁は、死者図祭祀のいわれを如実にものがたる「仏教説話」にほかならない。それは、血族の歴史を仏教唱導者の視座から再構成した縁起伝承といってもよいだろう。
「お盆の時に絵を掛けて読経をします。それ以外は出しません」
現住職・荒井徹成師の言葉に、寺と幽霊画を結ぶ宗教的な意味の本質がみえかくれする。
現代小説と寺院縁起の間に起こる説話の共振――。そうした文化現象もまた、説話研究の一視点となる。