「中外日報」創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて(1/2ページ)
龍谷大教授 中西直樹氏
真渓涙骨(本名・正遵、1869~1956)が「中外日報」の前身紙「教学報知」を創刊したのは、明治30(1897)年10月1日、29歳のときであった(明治35年1月15日発行から「中外日報」と改題)。しかし、創刊に至るまでの経緯には不明なことが多い。
涙骨は、自分の名前が表に出ることを極端にきらい、その経歴を語ることもほとんどなかった。「中外日報」の経営者が涙骨であることが公表されたのは、創刊後16年もたってからのことであり、大谷派の石川舜台が「忍術師」と評したほどであった。
しかし、新聞を創刊するには、それなりの準備があったと考えられる。確かなことは不明であるが、現時点で筆者が把握している事柄を報告しよう。
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涙骨は、明治2(1869)年に福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派興隆寺に、同寺住職真渓正善の長男として生まれた。本願寺派普通教校(龍谷大学の前身)に入学したが、本山前の堀川に飛び込んでコイを捕まえるなど悪戯が多く、まもなく退学となった。18歳で博多万行寺の七里恒順の私塾龍華教校に移ったが、ここでも僧侶修行に身が入らず、手刷り新聞を発行するなどして、恒順に叱正を受けて退校した。
その後の約10年間、涙骨は各地を放浪したようである。常光浩然の『明治の仏教者』によれば、神戸の某新聞で主筆となった後、自坊に帰って「南越新聞」を創刊した。しかし、この新聞も長く続かず、東京へ行き、次に京都に移った。この時期の詳しいことはわかっていないが、涙骨はさまざまなペンネームを用いて、新聞雑誌に投稿していたようである。ペンネームの一つが「望天」であり、当時の雑誌には「望天」名の評論を散見する。
のちに涙骨は、当時の仏教界のことを次のように回想している。
「仏教界では『明教新誌』があり、『奇日新報』というのが干河岸貫一氏や山本貫通氏によって発行されていました。西本願寺からは『開明新報』というのが出て、海外宣教会と相提携し松山松太郎氏らを中心として、欧文雑誌も発行され可なり仏教のために気を吐いたものです」
筆者は、この「開明新報」に涙骨が深く関わっていたと考えている。
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「開明新報」は、本願寺派と深い関係があった。本願寺派の本格的な新聞事業への関与は、明治13年2月に東京で創刊された「龍谷新報」を支援したことに始まる。背景には、前年のいわゆる「東移事件」による宗派内世論の混乱があったと考えられる。「龍谷新報」は同年9月に「教海新潮」と改題され、さらに明治16年2月3日に至って、新たに「奇日新報」が創刊された。
「奇日新報」を創刊した干河岸貫一は、嘉永元(1848)年に福島県の本願寺派大乗寺に生まれ、本願寺派訳文係として数冊の翻訳書の出版を手がけた後、「朝日新聞」「東京日日新聞」など数紙で新聞記者を務めた。朝日時代には、東京支局通信主任として「大日本帝国憲法」全条文を大阪本社に打電し、他紙に先がけて報道したことは有名である。社内きっての速筆で、電文書きでは並ぶべき者はいないと評された。黎明期の日本ジャーナリズムを支えた新聞記者に僧侶は意外に多く、大谷派寺院出身で、戦後に文部大臣となった安藤正純も「朝日新聞」「明教新誌」などの記者として活躍した。涙骨は彼らの活躍に、憧れを抱いていたと考えられる。
「奇日新報」は、本願寺派からの経済的支援を受けて刊行されたが、一般紙の記者を長年務めてきた貫一の編集方針もあって、仏教界を取り巻く動向が広い視点から報道されていた。当時、「奇日新報」(奇数日発行)は、偶数日発行で大内青巒が主宰する「明教新誌」と並んで、仏教界を代表する新聞であった。ところが、経営は苦しく、兼務する朝日新聞記者の仕事が忙しくなった貫一は、明治22年3月末に「奇日新報」の経営を譲渡し、発行元が京都に移った。
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