浄土宗中興の祖 了譽聖冏上人六百年御遠忌を迎えて(1/2ページ)
埼玉工業大特任客員教授 服部淳一氏
浄土宗は鎌倉時代、法然上人によって開かれ、称名念仏によって極楽往生を願い信仰を深めて人生を送ることを目的とする。それから200年後に、浄土宗を宗団として現在の姿となる基礎を作ったのが了譽聖冏上人(1341~1420)である。その聖冏上人が入滅してから600年を迎えたのが本年であり、上人が浄土宗に与えた影響を見ていきたい。
聖冏上人は1341(暦応4)年に誕生する。この南北朝時代、常陸の国はその争いの世界に巻き込まれていた。聖冏上人は常陸国久慈郡岩瀬城で誕生したが、5歳の頃、父・白石志摩守宗義は戦いの中で亡くなり、母と共に逃れ隠れ住んだ。縁あって近隣の瓜連常福寺の開山・浄土宗第六祖了実上人の門に入る。そこから浄土宗の教えを学び、さらには了実上人の師である常陸太田の法然寺の浄土宗第五祖蓮勝上人、鎌倉光明寺の第三世定慧上人からより深く浄土宗の思想としての教義を伝授された。
浄土宗は法然上人から二祖聖光上人、三祖良忠上人へと伝えられたが、その教えは京都を中心とした関西、鎌倉、東北、九州、さらには五祖蓮勝上人、六祖了実上人の時代に常陸へと広範囲に広がった。しかし教団としての力はまとまることはなく、教えの統一性を求めることはできなかった。
常陸を中心に学んだ聖冏上人は、仏教文化が盛んな下野の国など北関東地域、京都を中心にした関西地域に仏教全般の師を求めて13年にわたる遊学の旅に出る。そこで学んだことは、仏教の教えの中に浄土宗の教えを位置付けることであった。念仏の教えの尊さはわかるが、釈尊が説かれた中で大切な教えであることを明示することが必要であった。
一切経を求め、真言、天台、禅などの碩学からその宗の奥義を学ぶ。また日本で形成された思想の大切さを重要視し、和歌の道、神道の教えを受け、註釈書を上梓できるほどに学んだのである。
以上のような学びの中から、浄土宗にとって重要なシステムが生まれる。
①浄土宗の教えを再構築する
浄土宗の教えの勝れたところを示した教判には、『選択集』に難易二道判と聖浄二門判がある。これは教えとそれを修する人間の関係を示している教判であり、それに対し聖冏上人は仏教全体における念仏の教えを示す「二蔵二教二頓」の教判を示した。『二蔵二教略頌』『浄土略名目図』『釈浄土二蔵義』によってその体系をあらわしており、これは言うまでもなく善導大師、法然上人が説かれた教えに基づき構成されている。
②浄土宗伝授の確立
師匠から弟子への教えの伝授は一対一により、その成熟度に応じて印可を与える形式だった。浄土宗では法然上人の『選択集』、聖光上人の『末代念佛授手印』を書写することを許し、その教えの重要点を口伝する方法をとっていた。しかしその師匠の意趣によって変更されることも事実であり、同じ法然上人の弟子であってもその進む道が異なっていった。
聖冏上人の時代は特に禅宗の力が強くなり、浄土宗に対して独立した宗派ではないとの批判が寄せられていた。それは他宗からの批判に止まらず、教えを広めるという意味からも良い状態ではなかった。
この二つの意味から「正しい教えを正しく伝える」ことが絶対的に必要となっていた。聖冏上人は聖光上人から良忠上人へ伝授されていた『末代念佛授手印』を基本に、法然上人の教え、『末代念佛授手印』の良忠上人の末註書等を加え、五重伝法を構成した。五つの信仰の積み重ねを書伝と口伝によって伝授し、念仏信仰の絶対的境地へと導くものである。
この伝法を最初に授けたのが弟子聖聰上人である。伝授された教えを全て伝えることのできる聖聰上人という器を得た聖冏上人は、五重伝法の形式を完成させ、「浄土宗伝授の形態」を整備することができた。この聖聰上人は浄土宗第八祖として聖冏教学を推進していき、芝大本山増上寺を開山した。