行基研究とその課題「行基の実像に迫る」とは(1/2ページ)
佛教大非常勤講師・堺行基の会副会長 若井敏明氏
昨年2018年は奈良時代の高僧、行基の誕生1350年の年であった。それを記念して行基にゆかりの地でさまざまな行事が催されたが、なかでも奈良市では、10月20日に奈良公園の飛火野で「行基さん大感謝祭」と銘打って、アトラクションもまじえた記念行事がおこなわれ、あわせて東大寺総合文化センターでは「行基に学ぶ関西再発見の会」(通称=行基鍋)による「行基の実像に迫る」と題した記念シンポジウムが開かれた。私も縁あってこのシンポジウムの午後の部に工楽善通氏とともに司会者の一人としてかかわらせてもらった。
シンポジウムでは、「行基集団を支えた思想的、宗教的な背景とは何か?」と、「行基集団の社会基盤整備事業はどのように実施されたのか?」という二つのテーマを掲げて、中川修、近藤康司、馬場基の3氏が報告された。いずれも今日の行基研究最前線の成果である。中川氏は行基の思想について、その師と考えられている道照から唐の玄奘三蔵につながる流れを想定し、近藤氏は行基の社会事業と寺院建立について大野寺の土塔の事例を中心に論じ、馬場氏は「行基さんの道普請」と題して、交通史の視点に歴史地理的な手法をも用いて、その土木工事の独自性や背景にある人的ネットワークを指摘した。さらに、午前中におこなわれた行基関係寺院の住職、長老の法話でも、西大寺の佐伯俊源氏が研究者としての立場から、行基もおこなった架橋事業の背景にある仏教思想について述べられた。あえて整理すれば、中川氏と午前の佐伯氏の報告は「思想的、宗教的な背景」、近藤氏と馬場氏は「社会基盤整備事業のありかた」にかかわるものであって、シンポジウムは行基の社会事業家としての側面に関心が高まっていることを示していた。私もテーマとはややずれるが、行基の活動には聖武天皇が推進した諸事業を請負う面もあるという持論を感想で述べた。
だが、当時社会事業をおこなった僧は行基だけではない。すくなくとも交通施設の整備などは、行基以前から、宇治橋断碑にみえる道登や『続日本紀』に宇治橋を架けたとある道照などがいた。また、行基と同時期の天平初年に、中河内の旧大和川流域で万福法師という僧が活動していたことも、奈良時代の写経奥書から知れる。さらにそれ以外にも社会事業をおこなう僧侶がもっといたと思われるが、今となってはその名前は埋もれてしまっている。
ここで考えるべきは、行基の交通設備の設置など、国家のインフラ整備とかかわる活動が、難波以北、おもに淀川流域を中心としたものであったことである。難波地域の開発を考えると、淀川流域だけではなく、旧大和川流域も重要な対象エリアとなるはずである。この地域には行基とはまた別の、国家事業の請負主体、具体的には万福法師やそれにつながる中河内の僧たちがいたのであろう。行基よりもはやく社会事業をおこなっていた道照の出身氏族の船氏は、河内の野中寺を氏寺とする河内を根拠地とした渡来系氏族であった。玄奘三蔵から道照へとつながる流れは、彼の出身地と地理的にも近い中河内での僧侶に受け継がれ、仏教者による社会事業の本流となったように思えるのである。
さらに重要なことに、じつは行基はもともと社会基盤整備事業をおこなう僧侶ではなかった。当初行基は僧尼令違反者として、当局から取り締まりの対象となっていた。養老元(717)年に政府は僧尼の行動について3点をあげて批判した。そのうち第1は、勝手に僧侶の格好をしている、いわゆる私度僧を糾弾していて正式の僧尼についてのものではないが、第2では寺院外で違法な托鉢行為をする者として行基とその弟子らが名指しで非難され、第3では病人の家へ行って巫術をおこなう僧尼が問題とされている。この時期の行基の活動の背景には、平城京造営に伴う労役負担の強化とそれに対する浮浪・逃亡、私度を求める人々の存在などがあるが、仏教界にもその要因があった。