即位灌頂と儀礼のなかの天皇像(2/2ページ)
奈良国立博物館主任研究員 斎木涼子氏
そして、天皇の身体にも変化が起こっていた。まず、天皇の身体を護持する護持僧が登場し、天皇は仏教の力で常に護持される存在となった。さらには、天皇が在位のまま死ぬことが否定されたのである。長元9(1036)年、後一条天皇は宮中で崩御したが、その際「在るが如き儀」、つまり生きているかのように扱われ、譲位後に崩御したという形がとられた。これ以降、形式的には内裏内で天皇が崩御することが無くなる。これは崩御という事実よりも、ケガレの発生による政務停止の回避、朝儀の安定が優先されたことを意味している。もはや天皇個人の死は、政治的な意味を失い、個人としての天皇と、地位としての天皇が分離した。こうして、個性や偶発的事象に左右されない、また現実社会における統治力とは切り離された、儀礼と秩序の頂点に立つ抽象的な天皇権威が成立していたのである。
即位灌頂が受け入れられたもう一つの背景には、11世紀から12世紀にかけ展開された、密教僧による思想的な著述の拡大と、院政期の密教重視がある。先述のような動向のなかで、護持僧に任じられた密教僧の間では、天皇という存在を仏教的に解釈する言説が展開されるようになり、天皇が直接的に祖先神アマテラスや大日如来などの尊格と結びつけられ理解されるようになった。後三条天皇は、東宮時代より成尊という真言僧を護持僧としており、両者には深い関わりがあった。天皇が即位式で密教的所作を行った背景には、成尊から得た知識があったのではないだろうか。さらに後三条天皇の子であり、院政を開始した白河上皇以降、仁和寺法親王の誕生、密教僧昇進ルートとなる法会の整備、院が主導する新規な密教修法の創設、真言密教の重宝の収集など、密教重視政策や関心の高まりは本格的なものになっていった。
こうした社会的・思想的背景のなかで、断片的な後三条天皇の所作は語り継がれ、解釈され、2世紀も後に「即位灌頂」という儀礼の確立に至ったのである。密教僧たちは、伝聞した所作の意味を考察し、各流派のなかで様々な解釈や口伝が形成された。一方、この所作には摂政・関白も関わることとなる。先述の伏見天皇の即位に際して、即位印明を直接伝受したのは関白の二条師忠であった。この即位印明の伝授を巡っては、摂政・関白に就くことのできる一条家・二条家・九条家などの間で相論になることもあり、その相伝は摂関家の正統性を示す根拠ともなっていく。
即位灌頂に関わる事柄は秘説とされたが、実際にはその存在自体は貴族社会に広く知られる、いわゆる公然の秘密であった。真言宗・天台宗のなかで即位灌頂に関する教義的理解が相伝され、一方で摂関家でも伝授作法が相伝され、両者はそれぞれの正統性を示すカードとなっていく。また、天皇もこの所作を行うことによって、理念的には大日如来と一体化する統治者として正統性を獲得する。多様な解釈を許し、仏と天皇を結びつける即位灌頂は、抽象的かつ神秘的な天皇権威を示すという点において、まさに中世という新しい時代に即した儀礼として受け入れられていったのである。