相撲と女人禁制をめぐって問われていること(1/2ページ)
慶應義塾大学名誉教授 鈴木正崇氏
2018年4月4日の京都・舞鶴での大相撲春巡業で、土俵上で挨拶中の市長が発作を起こし、治療のために土俵へ上がった女性に対して「土俵を降りて」のアナウンスが流れた。この出来事をめぐって、相撲と女人禁制に関して広範な議論が巻き起こった。人命が第一で、女人禁制は二の次である。市長が回復されて本当に良かったと思う。
事情は複雑で、改めて相撲にとって「近代とは何だったのか」を考えさせられた。人命に関わる緊急事態なのに、女人禁制とは何事かと、日本相撲協会(以下協会と略す)は糾弾され、17年の相撲界の様々な不祥事と結び付けられて批判された。協会は根本矛盾を抱えているが、改革を進めるために不可欠の知恵者がいない。協会を糾弾するだけでなく、未来に向けての方策を考えないといけない。この出来事を契機に改めて相撲と女人禁制について考えてみた。
マスコミが今回の主役である。投稿されたユーチューブで女性が土俵に上がる状景が映し出され、救助隊員が来て市長が運び出されるシーンが流れた。その後に、土俵の上にたっぷりまかれた塩が映像や写真で映し出された。女性と大盛りの塩が結び付けられ、イメージ操作で穢れを清めたかのような印象を与えた。ネット上では「なぜ塩をまいたのだろう」という投稿に対して、「穢れを清めたからさ」という書き込みがあり「それはひどい」となって炎上した。非難は協会に集中し、理事長が「女性に対して塩をまいたのではありません」と謝罪した。土俵上では事件が起こった時は、力士の怪我や事故の防止のために塩をまくのが慣例だといっても納得されない。
報道からは、若い行司が「女性が上がっていいのか」と周囲に言われてあせってアナウンスをした部分が消え、協会の言動に一挙に非難が集中した。女人禁制の概念は乱用され拡大解釈されて相撲以外にも広がった。人権や伝統について議論を深めることなく繰り返される非難の嵐は深刻である。差別に一元化して異なる意見を封じ込めるネットの暴力も怖い。前近代と近代が微妙に混淆する魅力が大相撲なのに、「近代」の側の言説に圧倒されてしまう。物事には歴史があり文脈を踏まえて説明や解釈をすべきで、当事者の声に耳を傾け、「多様な声」を大事にする必要がある。
土俵の女人禁制が本格的に意識され問題視されるようになったのはさほど古くない。1978年5月、小学生の「わんぱく相撲」東京場所・荒川区予選で小学5年の女児が優勝したが、蔵前国技館で開かれる決勝出場を協会が拒否した。少女に同情した当時の労働省婦人少年局長の森山真弓氏が、協会の理事を呼んで抗議したが、伝統によるという説明で終わった。その後は、90年1月に官房長官になった森山真弓氏が優勝力士に内閣総理大臣杯を代理として手渡したいと申し出たが、協会に遠慮してほしいといわれた。次は2000年3月の大阪春場所で、太田房江大阪府知事が府知事賞を手渡そうとしたが拒否された。行政の長が女性ゆえに拒否されたことで一挙にマスコミの話題になった。
女人禁制の焦点は土俵で、表彰式や挨拶を土俵上で行う時である。「大相撲」の千秋楽での土俵上の表彰式が最大の問題で、政治家とマスコミも絡む。土俵は「大相撲」が開催される間は祭場という意識が根底にあることに由来する。吊り屋根の四色の房には御幣が結わえてあり、本場所中は力士仕度部屋と行司部屋に御幣を祀る。櫓からは天に向けて「出し幣」を2本掲げる。毎日、千秋楽の後には弓取り式を行って魔物を追い祓う。「大相撲」はカミの照覧の下に行われるのである。各部屋の土俵、相撲教習所の稽古土俵も、終了後、土俵の中央に砂山を作って御幣を立てる。
元々、「大相撲」が15日間に固定したのは昭和24(1949)年、年間6場所制は昭和33(1958)年で、祭場としての土俵は、年間90日である。戦前は本場所は年間2回で10日間あり、年間20日以下であった。そして、巡業は、単なる「相撲」で土俵を神聖視する必要はなく、「巡業」と「本場所」は異なる。横綱白鵬が舞鶴で「本場所ではないのに」と言ったのは本音である。若い行司は周囲の声でパニックになり「女性の方は降りて下さい」と告げた。本場所に準じての無意識に近い行動であった。