新出禅資料から見た新しい中世仏教観 ― 中世禅の再考≪12≫(1/2ページ)
国際日本文化研究センター名誉教授 末木文美士氏
かつては、中世の禅研究はあくまでも禅宗史という枠の中で限定して行われていたが、近年の研究はその枠を超えて大きく発展するようになった。一方で、幅広い中世文化の中で禅の役割を見直すとともに、他方で、急速に解明が進んできた東アジアの交易や文化交流史の中で禅を捉えるという動向が大きく発展した。ちょうどそのような新しい研究動向が形成されつつある時期に、『中世禅籍叢刊』全12巻が刊行されることになった。
『叢刊』は、栄西の真筆書簡や従来知られていなかった著作の写本が名古屋市の真福寺(真言宗智山派)大須文庫から発見されたことを契機に計画され、横浜市の称名寺(真言律宗)所蔵(金沢文庫管理)の写本などをも含めて、日本中世禅に関する資料を集成する方針で進められた。しかし、計画が進む中で次々と新しい発見があり、単なる資料集ではなく、中世禅宗史を書き換えなければならないような重要な文献を数多く収録することができた。それらの成果は、すでに2回のシンポジウムにおいて関係者による発表討論がなされ、そのエッセンスは本紙の連載にも披露されてきた。その成果はさらに、『叢刊』別巻の論文集として出版予定である。
ここでは、これらの成果が、単に禅宗史という分野だけにとどまらず、中世仏教史全体の書き換えを要求する大きな問題を含んでいることを論じてみたい。中世仏教研究では、従来いわゆる鎌倉新仏教中心論が長く常識化されてきた。新仏教対旧仏教という構図で、新仏教が善玉、旧仏教が悪玉視されていた。
黒田俊雄の顕密体制論は、顕密仏教こそが中世仏教の中心だと、従来の見方を大きく転換する画期的なものであったが、その後、再び従来の旧仏教を顕密仏教、新仏教を異端派と呼びかえただけの二項対立図式に逆戻りする傾向が主流となって、それが20世紀終わり頃まで続くことになった。しかし近年、密教研究の進展などによって、さすがにそれでは説明しきれないことが多くなり、どのように全体像を描き出すかが課題となってきた。
12世紀後半から13世紀にかけての仏教を考えるには、運動面と思想面の両方から考える必要がある。まず運動面から見ると、治承4(1180)年の平家による南都焼き討ちに対して、その直後から盛り上がった復興運動が大きな出発点となっている。後白河法皇の指揮下に俊乗房重源が東大寺大勧進職に任ぜられ、大仏再建を合言葉に官民を挙げて、日本中を巻き込んでの大運動となった。東国の源頼朝も積極的に協力し、さらに歌人西行が平泉に赴いたのも奥州藤原氏の援助を求めるためであった。戦乱の後の新秩序の形成と並行して、仏教再興の機運はあらゆるところに沸き上がり、それを集約する形で大仏再建がなされたのである。
後に新仏教と分類されるような栄西や法然もこの運動と密接な関係を持つ。栄西は重源と宋で知り合ったと言い、重源を引き継いで二代目の東大寺大勧進職となっている。真福寺から発見された真蹟書簡はその時期のものである。法然は、重源に請われて、再建途上の東大寺で講義を行っている。このように見るならば、新仏教(異端派)対旧仏教(顕密仏教)という二項対立は全くのフィクションであり、たとえ部分的な対立や抗争があったとしても、仏教界が全体として復興へ向けて巨大なエネルギーを傾注していた時代と見るべきである。ただその際、中心となって活動した僧は、多く貴顕出身の僧位僧官を持つ官僧ではなく、周縁にあって山岳修行などを積んだ僧であった。その意味で、当時の仏教界は官僧による中心的な核と、その周縁に広がる自由な僧という重層的な構造を持っていたということができる。
このことは、栄西や法然が「開宗」したとされる「宗」の問題に関わる。確かに『興禅護国論』では「禅宗」を、『選択本願念仏集』では「浄土宗」を説いている。それが臨済宗と浄土宗の開創とされる。しかし、それを今日的な教団としての「宗」の開創と考えるならば、まったく間違っている。彼らは禅宗(臨済宗ではない)や浄土宗を、これまでの八宗に加えて公認されることを求めているのである。そこで言われる「宗」は理論・実践の組織的な体系ということであり、諸宗を兼学・兼修することは十分に可能である。栄西の禅が密教や律・天台教学などと併修されるのは当然であるし、「専修」を説く法然が戒師として活動したとしても不思議はない。