「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」に寄せて(2/2ページ)
ゴッホ研究者 正田倫顕氏
実際、ジャポニスムという視点から離れて再び作品を見て回ると、展覧会の切り口からは逸脱した深みと広がりが感じられてくる。ゴッホの絵画に特有の得体の知れぬ迫力や強烈さが襲ってくるのである。
とりわけ、先にも見た《草むらの中の幹》(F676/JH1970)は言いしれぬ迫力と繊細さを兼ね備えた作品である。確かに画面を貫く大木、地平線を排除した構図、木々を囲む黒い輪郭線などに、浮世絵の影響を指摘できるだろう。しかし、それだけを確認して立ち去ったのでは、この絵の大部分を見落としてしまうことになる。まず目につくのはエネルギーのみなぎった縄文杉のような大木である。根元から二股に分かれた松は、樹皮の上を色とりどりのタッチがのたくり、駆け上がっている。浮世絵の木を見てもこれほどの描きこみはないし、そもそもジャポニスムに特有の平坦な色面表現とは相容れないものである。また前景から中景に咲くタンポポや野花の黄色と白色、そして茎の水色、茶色、エメラルドグリーンは大木の幹にもちりばめられている。優美で可憐な草花の世界と太古から続く原始的なエネルギーを宿した大木とが互いに孤立するのではなく、色彩とタッチでつながっている。黒い輪郭線があっても、それらをこえて野に咲く花々にも松の木にも同じエネルギーが流れている。さらに中景から後景にあるほかの木々にも、水色や緑色の筆触が大地から幹に這い上ってきている。輪郭線による孤絶を否定するかのように、すべてが同質性と連続性にひたされているのだ。どうやらジャポニスムというのは表面をなぞっているとそう見えるだけのことであって、この絵の本質はそのようなところにはなさそうだ。
20年ほど前、最初にこの絵を見たとき、私にはゴッホその人が現れ出た作品だと思えた。繊細で傷つきやすい男の世界に突如マグマのようなエネルギーが奔騰してきて、その内面世界が率直に表現されたのだと。またエリアーデやメンシングは宗教的人間に普遍的な聖なるものとして、宇宙木を挙げている。そうした宗教学的観点から見れば、《草むらの中の幹》における松の木は天と地を貫く宇宙の中心軸として、聖なる輝きを放っていることは明らかである。
しかし今改めてこの絵を観てみると、ゴッホは無自覚のまま世界の現実に即して描かされたのだとも見える。ゴッホを超えた、なにごとかが彼の筆を通して現われたのだ。その根源的なエネルギーは大地にあふれ空間を満たしているだけではない。画家本人にも流れこみ、万物を貫流している。だからこそゴッホはこの絵を説明しながら、無我の制作をこう書いたのだろう。
「ぼくは外に出てあそこへ行く。きっと仕事をしたいという欲求がぼくをとりこにし、ほかのすべてに無感覚になり、上機嫌になるだろう。ぼくはそれに身をゆだねる」(631/868)
それゆえこの絵はゴッホの内面でもあり、外部の世界でもあるのではないか。柔と剛、内と外、自と他がひとつながりになって、エネルギーに満たされている。ジャポニスムの影響があろうがなかろうが、その真実に変わりはない。
結局、多くの来場者は次のような誤解を得て帰るのではないかと危惧を覚えた。ゴッホというわれわれには何の関わりもない不幸な男が、日本にばかげたファンタジーを抱き、浮世絵の影響を受けて死んでいったのだと。そうであれば、何とも不幸な矮小化である。ゴッホの絵画には西欧の伝統的な自他二元論に対する根源的批判、実体論的世界把握・自己把握への批判が読み取れる。これらをゴッホは思想家として論じたのではなく、ほとんど無意識的に画家として貫徹している。こうしたことは同時代の影響関係、絵画の発展史だけを見ていても、十分に理解されない可能性が高い。そして残念ながら、今回の展覧会にすっぽりと抜け落ちている視点である。ゴッホの芸術の真相(深層)に迫るためには、ジャポニスムという表層をはぎとって、その奥深くにある世界を見なければならない。世界の根源へのまなざしなくして、ゴッホ本来の世界は見えてこないのではないだろうか。