春日曼荼羅と春日講(1/2ページ)
奈良国立博物館学芸部研究員 清水健氏
春日講は、春日権現を讃歎供養する『春日講式』という詞章を詠み上げ、その神徳を讃え、報恩感謝する法会を行う講のことである。今も「奈良町」と称される奈良市内の古い町並みでは、この法会を年に1度開くところが残っているが、かつては各町内の会所と呼ばれる集会所に住人が集まり、盛んに行われたそうである。法会は春日権現を礼拝することに加え、講の構成員が一堂に会して、法会の後に共同飲食することで地域的紐帯を強める目的もあり、町内の重要な行事の一つであった。この春日講において礼拝を受ける本尊として祀られたものの一つが、いわゆる春日曼荼羅である。
春日曼荼羅とは、春日神やその本地仏、あるいは春日社の景観などを表した礼拝画の総称で、今日の美術史研究では、春日神を本地仏の姿で表した「春日本地仏曼荼羅」、垂迹神と本地仏の両方の姿で表した「春日本迹曼荼羅」、春日社の景観を中心とする「春日宮曼荼羅」、春日社と併せ興福寺の堂塔やそこに安置される仏像を描いた「春日社寺曼荼羅」、神使である鹿を大きく捉えた「春日鹿曼荼羅」など、数種に分類されている。戦後の美術史研究は永らく、こうした曼荼羅の図様による分類や制作年代を比定するための様式的な研究などの、作品そのものを評価し、美術史上に位置づける、基礎的な研究に費やされてきた。1990年代に入ると、美術史にも現代思想の影響を受けた方法論が盛んに採り入れられるようになり、比較的保守的な仏教美術研究においても、こうした試みが行われるようになった。そして今世紀に入ると、インターネットの飛躍的発展や各種のデータベースの構築、歴史史料のフルテキスト化など、研究環境の高度情報化の影響等を受け、仏教美術史研究もデータ化、情報化が進展し、かつての基礎的な研究に対し、メタ美術史ともいえる様相を呈してきた。
殊に特色的なのは、かつては基礎研究にあまり必要とされなかった、副次的情報の重視である。例えば作品の収納箱に記された箱書や、掛け軸の背面に記された表褙書、解体修理の際に掛け軸の軸木から発見される墨書、各種の附属文書などである。以前は作品の調査等に赴いても、作品だけが登場し、箱や附属文書などはお願いしなければ出してもらえず、またお願いしても怪訝な顔をされたりしたものであるが、研究手法の変化から、こうした副次的な情報も作品の様々な側面を考察する上で、重要なものになった。様々な側面とは、例えば制作された経緯や作者、発願者、奉納された場所などの制作環境、作品の機能(使用方法)、今日までの伝来、受容のされ方などである。
こうした動向を反映して、春日曼荼羅の研究にも、新たな視点が注がれてきた。その一つが春日講の本尊画像という視点であり、近年多くの画像が春日講にゆかりのものであることが明らかにされてきた。その成果は、2006年より筆者の勤務する奈良国立博物館で毎年開催されている「特別陳列 おん祭と春日信仰の美術」で一端が披露され、4月14日開幕の創建1250年記念特別展「国宝 春日大社のすべて」でも重要な構成要素となっている。
例えば、奈良県王寺町に鎮座する久度神社に伝わる春日社寺曼荼羅は箱書によれば、本図の制作年代とも大きく齟齬しない室町時代・文明8(1476)年より、大和国広瀬郡久度郷堀内の春日講によって祀られてきたものであり、軸巻留部分には江戸時代・寛政4(1792)年の講衆による修理銘があって、同一の講の本尊として大切にされてきたことがわかる。中世の久度郷については詳しい史料がないが、この辺りは興福寺一乗院方の国民であった片岡氏の支配領域で、春日社・興福寺に仕えた同氏の影響下で、郷民にも春日信仰が根付いていたと推測される。現在、講は消滅し、曼荼羅は在地の神社に移されているが、成立以来一つところに伝えられてきたのは大変貴重である。