「明治仏教」研究事始め(1/2ページ)
龍谷大教授 中西直樹氏
平成30年は明治維新から150年目にあたる。仏教界でも関連出版物の刊行がいくつか企画されているようである。ところで、明治仏教に関する調査・研究は、いつごろから始められ、どのように進められてきたのであろうか。その戦前の歩みを、東西本願寺の修史事業を中心に少しまとめてみよう。
明治仏教の史料や記録を残そうという試みは、かなり早い時期から意識されていたようである。筆者の知る限りでは、仏教学会発行の雑誌『佛教』の「明治佛教史料」欄が、その最も早いものではないかと思う。
雑誌『佛教』は、97号(明治27年12月)に掲載した「投書募集」で「明治佛教史料」欄を新たに設けることを予告し、明治仏教の歴史的事実を明らかにするため、各宗派の運動、諸高僧碩徳の伝記逸事に関する記事を寄稿するように呼びかけた。
この呼びかけに応じて、「明治佛教史料」は、98号(明治28年1月)から103号(同年6月)まで連載された。そのなかには、大内青巒「教部省及教導職の起源」、前田慧雲「本願寺勤王事績」、南条文雄「笠原南条在英中の事業」など、貴重な記録が含まれている。
昭和31年、親鸞七〇〇回遠忌法要を目前にひかえ、第23代勝如宗主(1911~2002)の発起により本願寺史編纂所が設置された。編纂所は、42年に本願寺史料研究所となり現在に至っている。しかし、それより50年前の六五〇回遠忌法要の際にも本願寺史編纂事業が計画されていた。
明治の本願寺史編纂は、明治44年10月に龍谷大学図書館内に事務室が開設されてスタートした。同年12月、編纂事業は執行所枢密課の所管とすることが達せられている。
翌年1月発行の『教海一瀾』(『本願寺新報』の前身紙)は、本願寺史編纂の事業を開始することを広告し、編纂部員が史料蒐集のため出張した際は協力することを門末に求めた。編集部員は、脇谷撝謙、鷲尾教導らが就任し、各地を巡回して史料を蒐集したようである。45年7月発行の『教海一瀾』に「本願寺史編纂概況」が報告され、蒐集した史料の一覧が記載されている。これら史料は、現在も龍谷大学大宮図書館に所蔵されている。
しかし、当時の龍谷大学は、『仏教大辞彙』(全3巻)という辞書編纂の大事業も並行させており、本願寺史を編纂するまでに至らなかった。ただ、明治45年7月に明治天皇が死去したため、翌年『先帝と本願寺』が興教書院から刊行された。この書の奥書には、興教書院編輯部の編纂と記載されているが、巻頭の「例言」は「本願寺史編纂所にて、脇谷、鷲尾、西谷生しるす」とある。明治天皇と西本願寺との関係史が詳述されており、編纂所で蒐集した史料が活用されたようである。
なお、大正元年には『先帝と東本願寺』も法藏館より刊行されている。こちらも、明治天皇と東本願寺との関係が編年体で書かれている。『先帝と本願寺』と『先帝と東本願寺』とは明治期の東西本願寺の歴史を知る上で貴重な史料である。ちなみに、六五〇回遠忌法要の際には、『専修寺史要』(高田派専修寺遠忌法務院文書部、明治45年)が刊行されている。この書は小冊子ながら、近代における寺史編纂のなかでも、先駆的事例であろう。
西本願寺の本願寺史編纂は実現しなかったが、昭和元年7月、第21代明如宗主(1850~1903)の二五回忌を迎えるにあたって明如上人伝記編纂所が設置された。前田慧雲が所長に就任し、情報の提供を呼びかけて各方面から史料が寄せられ、編集作業がスタートした。
翌年の『明如上人伝』刊行までわずか1年足らずの編集作業であったが、千ページをこえる大部のもので、明治期の西本願寺の動向を全体的に把握するための基本的文献となっている。
一方、東本願寺の宗史編纂の契機も六五〇回遠忌法要であった。明治40年、遠忌記念事業として真宗大学(現大谷大)に宗史研究会が設置され、同大学の教職員・研究院生らが史料蒐集と研究活動に着手している。