近代の社会事業と神社神道(1/2ページ)
國學院大准教授 藤本頼生氏
近年、宗教学の立場から国家神道、宗教とナショナリズムをめぐっての論議が盛んである。筆者は、これまで「神道と福祉」との関係性について研究を進めてきたが、その研究の起点となったのは、近代の神道史である。ゆえに近代において神社や神職が関わった社会事業などを明らかにすることは、従来とは異なった視点から近代日本の宗教をうかがうことにもつながる。そこで、本紙「論」欄の執筆に際して、筆者の専門とする近代以降の社会事業と神社・神職との関わりの一端を述べることで、近年のいわゆる「国家神道」をめぐる論議の一助としたい。
かつて、社会福祉学の河畠修は「日本固有の宗教、神道にあっては、福祉活動との関連は少ない」(『福祉文化論』)と述べたが、拙著にも記したように、近代以降の神道史をたどってみれば、その指摘が一面的な見方に過ぎないことは明らかである。例えば、近代民間社会事業史の上では、監獄改良や免囚保護、感化院の設立などにおいて宗教者の役割が大きかったことが指摘されているが、明治初期における宗教教誨事業への神職の参画は、明治5年の真宗大谷派の啓凛、對岳の開始より1年後の明治6年にさかのぼる。教誨に関連していえば、市ヶ谷にあった東京監獄や、巣鴨監獄には、構内に稲荷社が鎮座していたことが知られる。
また、かつての教護院にあたる児童自立支援施設についても、その嚆矢は明治17年に設立された神道大成教の池上雪枝の感化院であるが、明治18年には伊勢の神宮の教化団体ともいうべき神宮教がスポンサーとなって、「神宮教院感化院」と称する感化院を東京本郷に設立・運営したことが知られている。さらには、岡山県の美作社会協会のように、大正期に美作地域周辺の神社の神職が主唱者となり、僧侶や教派神道の教師らの協力を得て、神社・寺院・教会の施設の一部を利用して社会的弱者の宿泊施設や職業紹介所を設置して、救済活動を行おうとした事例もある。加えて現在の民生委員にあたる済世顧問制度、方面委員についても各府県で神職が数多く選任されていたという事実や、愛媛県の合田正良宗像神社宮司のように、神職が中心となって組織を結成し、昭和18年に県立新居浜家庭寮(のちの愛媛県立えひめ学園)を設置、その寮長として施設運営にも尽力、戦後は、戦争で夫を失った女性のために授産所や職業訓練所、保育所の設置に力を尽くしたような事例もある。
しかしながら、大原社会問題研究所が戦前発行した『日本社会事業年鑑』の分類に基づけば、当時の神社のなせる社会事業としては、日曜学校ほか児童教化事業、青年会および処女会、婦人会および戸主会、図書館、娯楽施設、免囚保護、社会教育的施設、と捉えられており、いまの社会福祉活動の概念につながる社会事業というよりも、現在でいうところの社会教育、社会教化活動という側面が見受けられ、神社に適当とすべき社会事業が、必ずしも社会事業の全体をカバーするもの、あるいはメインストリームにあたるものではないと考えられよう。それゆえに大正期には、神社の社会事業が、いかにあるべきかという点を考えるために、神社局主導によって全国の官国幣社の神職を招致して「神社の社会事業懇談会」なる座談会が開催されたほか、神社局第一課長(のちに神社局長、皇典講究所専務理事)を務めた吉田茂が「神社と社会事業」を著したほか、各地の神社の社会事業を掲げた「神社を中心とせる社会施設」が『神社協会雑誌』に連載されるなどし、この時期に同種の論考が同誌や『皇国』誌などに数多く掲載されている。その後、官制で設置された神社制度調査会においても、昭和8年11月の第35・36回特別委員会にて神社の社会事業が議論されたという経緯もある。