明治維新150年に寄せて(1/2ページ)
京都ノートルダム女子大非常勤講師 大喜直彦氏
文久3(1863)年3月4日、14代将軍徳川家茂が、3代将軍家光以来、実に230年ぶりに上洛しました。目的は朝廷から攘夷実行の要請を求められたためでした。先がけて2月24日には、一橋慶喜が上洛して西本願寺を来訪します。広如宗主は殿中で慶喜に盃をすすめ、御堂・飛雲閣などを案内し、大奥へ招き入れ百花園で饗応したのです。慶喜とは「従来の御懇家(親しい間柄)」のため破格の扱いをしたのです。この時、慶喜から宗主・徳如新門・明如新々門へ土産として、唐物掛け軸・生鯛などが贈られています。
3月11日、家茂は孝明天皇による賀茂社への攘夷祈願行幸に供奉、4月3日には宗主・徳如新門・明如新々門が二条城に家茂上洛見舞いに出かけています。
明けて元治元(1864)年正月15日、将軍家茂が前年に続き上洛。目的は雄藩諸侯による国政参画の参予会議への列席でしたが、真意は西南雄藩で動く京都政局への牽制と幕府への主導権奪取でした。上洛した家茂は挨拶として、28日に宗主と新門・新々門へそれぞれ真綿30把ほかを贈っています。
このような中、京都池田屋事件の報が長州藩へ届くと、同藩は自重していた京都出兵を出陣へと舵を切りました。結果、蛤御門の変、元治の大火となるなど、京都は大きく揺れ始めました。この将軍上洛で諸大名らの動きは活発となり、京都の政局がにわかに動乱の様子を呈し、西本願寺もその中へ巻き込まれざるを得なくなったのです。
『広如上人芳績考』によると、蛤御門の変で敗走する長州兵数十名が西本願寺に逃げ込み堂内での切腹を希望。しかし宗主は毛利家との旧好を重んじ、死を思いとどまらせ、剃髪し僧侶に変装させ逃走させたとあります。このため元治元年8月23日、会津藩は兵を率い西本願寺へ迫りました。これは慶喜の仲裁で難を逃れましたが、同藩は寺内を探索、嫌疑ある家臣・僧侶数名を捕縛投獄したといいます。
慶応元(1865)年2月5日、発言権を強めていた朝廷から家茂は、再三の上洛と攘夷決行を要請されました。この時期、京都は孝明天皇の攘夷を維持して、一橋慶喜(禁裏守衛総督)と会津松平容保(京都守護職)・桑名松平定敬(京都所司代)、通称「一会桑」により江戸から独立権力状態にあったのです。将軍はその中心である慶喜を連れ戻して「一会桑」を解体し、京都を幕府の意に従わせようともくろんでいました。