宗教者としての本質が問われる臨床宗教師活動(1/2ページ)
武蔵野大教授 小西達也氏
布教はなぜ不可か
臨床宗教師養成講座が全国の宗教系大学で広まる中、2016年度から始まった武蔵野大の同講座の2期生も順調に学びを深めている。既に知られているように臨床宗教師とは、「被災地や医療機関、福祉施設などの公共空間で心のケアを提供する宗教者」(「日本臨床宗教師会設立趣意書」)である。
そうした講座の初学者の典型的な問いの一つに、「臨床宗教師活動において自らの宗教・宗派の教えが出せないとしたら、宗教者がそのような活動を行う意味はどこにあるのか」というものがある。臨床宗教師活動は公共空間で公共の福祉を目的として行われるものであるため、ケア対象者の要望がない限り、特定宗教・宗派の教えを説くことはできない。「日本臨床宗教師会倫理綱領」でもその遵守の重要性が繰り返し説かれている。
もちろんそうした疑問も無理はない。なぜならば宗教者にとって「教え」こそが、そのアイデンティティーの根幹であり、その布教・伝道こそがその最重要の仕事の一つと考えられるからである。
しかし筆者は、臨床宗教師の原型である「チャプレン」としての、日/米、病院/在宅での実践経験から、「臨床宗教師活動」の場というのは、むしろその宗教者に、宗教者としての本質的な在り方の探究と実践を迫る場であると考える。
公共空間で「教え」が持ち出せない最大の理由は、現代社会が個人の自律性尊重を重視する、いわゆる自由主義社会であるためである。しかも「教え」の主要テーマである、人の「生き方」は、個人の自律性の最根源に関わる事柄である。そうしたものについて、他者が特定の「あるべき」を指示することは、はばかられる。しかし「あるべき」なしで、一体どのように相手の生き方をサポートするのか。
実はその実践が、臨床宗教師が主として提供する「スピリチュアルケア」である。その基本は、ケア対象者を理解し、その自己表現をサポートしていくことにある。具体的には、ケア提供者は、ケア対象者が置かれている人生の境遇や状況、いわば「生の立場」の、可能な限り正確な理解を試みていく中で、同時にその立場に自らをも正確に位置づけていく。それがいわゆる「寄り添う」ということである。
そしてその対象者の「生の立場」での情景やそこでの実感を言語化し、それを対象者に返すことで対象者の表現をサポートしていく。そしてもし、その提供者による表現がケア対象者にとって適切なものであった場合には、それがケア対象者自身のものとなり、しかもそれにより対象者は「わかってもらえた」と感じ、そのさらなる自己表現意欲が促され、そこからその状況下での「生き方」発見へとつながっていく。
このようにスピリチュアルケアは、アドバイスや教導と異なり、対象者の「心の深い次元」への目覚めを援助し、その内面生活を支えていく中で、ケア対象者自身が納得いく生き方を見いだしていくことをサポートするものである。その際、その「心の深い次元」を、個我的自己を超えた宗教的世界観特有の次元とみることも可能であろう。
異なる宗教のケア
公共空間におけるケアのもう一つの大きな課題は、提供者と対象者の宗教が異なる場合のケアはどうするのか、ということである。それは極端な例でいうならば、「仏教僧はイスラム教徒に対していかなるケアが可能か」ということである。そうしたケアは「インターフェイス(Interfaith、異宗教〈信仰〉間)ケア」と呼ばれる。これは異他性を有するものに対するケア、「異他ケア」として一般化することもできる。
実は臨床宗教師のケアの対象者は、その「宗教」のみならず多くの面で異他性を有する。「経験」の異他性ということで言うならば、ケア提供者は多くの場合、対象者と同様の経験がない中でケア対象者の「生の立場」に寄り添っていく必要に迫られる。例えば臨床宗教師の多くは被災者としての経験を有さず、終末期患者としての経験は皆無である。