獨湛の勧修作福念佛図説(1/2ページ)
浄土宗総合研究所研究員 田中実マルコス氏
念仏を千遍あるいは万遍を称えるごとに白圏の「○」をうずめるところから「消し念仏」としても知られている「念仏図説」は、江戸時代に念仏教化のために数珠のような機能をもたせたところの布教伝道の手段であった。獨湛の『勧修作福念佛図説』は宝永年間(1704~11)から昭和初期まで10回にわたって印施されており、日本浄土教に大きな影響を与えたことが知られる。ここではその『勧修作福念佛図説』について紹介する。
江戸初期、京都宇治に黄檗宗の総本山となる萬福寺を開いた隠元隆琦(1592~1673)は、長崎興福寺の逸然(1601~68)より渡来を4回も要請され、遂に断りきれず承応3(1654)年、門弟のみならず、彫仏師・仏画師・仏具工・縫工・建築技師など、30人と共に来日、近世中国仏教のみならず明代文化の一端を伝えた。臨済系のその宗風について、妙心寺219世虚欞了廓(1600~91)は「禅と念仏を双修する雲棲袾宏の宗風であろう」と述べ、随行の一人であった獨湛性瑩(1628~1706)については「工夫専一に勤める人」と伝えている。
後に木菴・慧林に続き萬福寺第4祖となる獨湛の人柄については、師の隠元が「獨湛には孝の徳があり、言葉を謹み、行動を慎む人であり、仏法のために疲倦することなく精進し、一処の主として恥じることのない人である」(『黄檗開山隠元老和尚末後事實』)と語っている。
来日した黄檗僧の多くが、日本仏教諸宗の僧と交流した。獨湛も特に浄土宗侶と道交を深めていた。例えば宗学・宗史の研究や宗典の校訂出版に尽くした浄土宗の学僧・義山や忍澂との出会いを通して、獨湛は善導の浄土教を知り、知恩院第42世白誉秀道(1631~1707)より無塵居士(本名廣野良吟)が模写させた當麻曼陀羅を見せてもらう。それを機に獨湛は大和當麻寺を参拝して化人が蓮糸によって織ったという伝説がある當麻曼陀羅に大きな感銘を受け、自らも模写して『當麻圖説』を刊行し、中国に紹介した。また獨湛が念仏教化用に印施した『勧修作福念佛図説』を、忍澂は2度も増刷して世に弘めている。
中国宋代に編集された宗暁の『楽邦文類』巻三「朱氏如一伝」には、欽成皇后の姪である朱(法名如一)が「擘窠婁書」(小圏が連続集合して蜂の巣のようになった図)を印刷し、施して人々に阿弥陀仏を誦することを勧めたとある。図説は十万声を満たすことができ、所化の数は20万もの人々が手にしたと述べている。また同じく宋代志磐の『佛祖統紀』巻第28には、咎定國居士(~1211)が常に念仏し、浄土の諸経を読んで、西帰社という念仏結社を結び、勧化のために念仏図説を印施したとある。また『佛祖統紀』には計公とよばれる鐵工が、70歳になろうとする時に両目を失明したが、里中の昝學諭(定國)は擘窠圖を印施して念仏を勧めた。計公は初めにその一図を受け、それを三十六万声で満たし、さらに念ずること四図に至ると両目が見えるようになったという。このように中国南宋時代(1127~1279)頃には念仏図説による教化が盛んに行われていたことが知られる。
日本では獨湛の念仏図説とは別に独自の念仏図説による教化が企画されていた。雲嶺桂鳳の『蓮会百万念仏図説述賛』には、師である雲洞(1693~1742)が元禄14(1701)年の秋に『丈六弥陀蓮会講百万念仏図説』を作成したが、人々がそれを信受しないことを恐れ、世に出さなかった。しかし宝永2(1705)年の春、獨湛が印施した『勧修作福念佛図説』を見て愚願と主旨を同じくする念仏教化であると思い図説を印施し、人々を教化したとある。このように獨湛の『勧修作福念佛図説』が日本における念仏図説印施による教化を展開させる先導的役割を果たしていたことが分かる。