百五十回忌によせて新選組を振り返る(1/2ページ)
土方歳三資料館館長 土方愛氏
1863(文久3)年2月、将軍家茂公警護のため募集された浪士隊は、上洛後も京にとどまり、会津公・松平京都守護職の下、新選組として市中警護を務め、動乱の京の治安維持に尽力しました。その後時勢利なく、鳥羽伏見の戦いを機に勃発した戊辰戦争を戦い、江戸に下り甲州勝沼での戦闘に敗れ、流山に陣した際に局長・近藤勇が囚われの身となりました。副長・土方歳三はさらに宇都宮、会津と転戦し、仙台より蝦夷へ向かい箱館戦争を戦いぬきました。69(明治2)年5月11日、敵の銃弾を受け歳三が戦死すると、1週間後に五稜郭は降伏、開城し箱館戦争は終結しました。
新選組はその誕生から最期まで、実に6年という短い期間の活動しかありません。維新後の明治の世の中では、彼らの歴史は歪められ、偏見により賊徒かのような眼差しをもって冷遇された時代もありました。しかし、明治改元から100年後の1968(昭和43)年頃から「歴史を両側からもう一度見直そう」という動きが全国各地で起こり、新選組や東軍の事績も再顕彰されました。現代では、「徳川幕府を守る」という自らの誠、義を胸に命を賭した新選組隊士の生き様に、多くの方々が共感し、敬意をもって語られることも多くなりました。
本年は、1868(慶応4)年の戊辰戦争戦没者にとって百五十回忌の節目の年にあたります。去る3月18日、東京都日野市の高幡山明王院金剛寺にて「新選組隊士及関係者尊霊百五十回忌総供養祭」が営まれました。
この法要は、68年1月に鳥羽伏見の戦いで殿を務め亡くなった新選組六番隊長・井上源三郎生家ご子孫の井上様、4月に板橋にて無念の死を遂げた新選組局長・近藤勇生家ご子孫の宮川様両氏が中心となり発起されました。通常、自分の先祖の供養だけで精一杯の私たちです。しかし、「戊辰戦争で亡くなった全ての戦死者を敵味方なく、また戦火に巻き込まれた市井の方々も含めて供養したい」と奔走されました。最終的には、その志に賛同した新選組隊士及び関係者子孫12名が発起人となり、参列者を募ったところ、当初予定していた定員250名を大幅に超えて申し込みがありました。そこで急遽定員を430名まで増やし、それでも当日は、お堂に入りきれない人が出るほどで、百五十回忌という節目に相応しい盛大な総供養祭となりました。
大導師を川澄祐勝貫主が務められ、読経の際には、新選組隊士一人一人の戒名が唱えられました。
法要後は、新選組が仕えた会津藩主・松平容保公のご子孫・松平保久様による記念講演「会津藩と新選組」が行われました。会津藩、そしてそのお預かりとして支えた新選組について、「愚直」というキーワードを用いて、徳川幕府に殉じた両者を讃えておられました。
これまで、これほど多くの新選組隊士の子孫が一堂に集ったことはありません。また、今回の法要は敵味方なく供養するということで、西軍・西郷隆盛のご子孫、勝海舟のご子孫など多方面からの参列者がありました。
そのようなことからも、150年という時の流れにより、恨み悲しみなど負の感情が浄化され、改めてすべての御霊を慰め、歴史を振り返ろうという機運が高まっているのだと感じました。
不動明王を祀り「お不動さま」と呼ばれ親しまれる金剛寺は土方家の菩提寺です。1827(文政10)年、歳三の祖父・土方源内義徳は、石巴の雅号で俳諧仲間と句額を奉納しており、土方家が代々菩提寺に親しんでいたことがうかがえます。
歳三も、母の実家が寺にほど近い旧家・久野家だったことも重なり、小さい頃からお不動様の境内で遊んで過ごしたと伝えられています。
新選組時代に京都から出された歳三自筆の手紙には、末尾に「尤も遠からず都において一戦もこれあるべき事に御座候、御席の節高幡山貴僧へよろしくご鶴声願い奉り候」と記されており、京においても、故郷で慣れ親しんだ菩提寺を気にかける様子が伝わります。