親鸞の往生論への誤解を糺す(1/2ページ)
大谷大名誉教授 小谷信千代氏
11月8日付の本紙に京都大名誉教授長谷正當氏の拙著に対する批判が掲載された。それは拙著『真宗の往生論』『誤解された親鸞の往生論』『親鸞の還相回向論』(いずれも法藏館刊)で述べた曽我量深師の「現世往生説」に対して筆者が行った批判に対する反論である。しかし、そこには何ら正当な論拠は示されず、浄土教学と親鸞教学への正当な思索もなく、氏の奇妙なお考えと独断とが見られるのみである。
例えば氏は、「信が決定したことは、信を獲たことである」とされるのに、「往生が決定したことは、往生を得たことではない」とは何とも奇妙な理屈である、と述べておられる。
そう言われる氏のお考えこそ甚だ奇妙である。
氏のお考えは次のようである。「~が決定したことは、~を獲たことである」という理屈が信の場合に成り立つのであれば、それはすべての場合に成り立たなければならない。「~」に「往生」を当てはめてもそれは成り立つべきである。それゆえ「往生が決定したことは、往生を得たこと」であるはずである。にもかかわらず「往生が決定したことは、往生を得たことではない」と小谷は言う。その理屈は奇妙である。
しかし「信が決定したことは、信を獲たことである」とは言えても、「~が決定したことは、~を獲たことである」という理屈が、すべての場合に当てはまるものでないことは、小学生にでもわかる。中学生になれば自転車を買ってもらうことが決定したからといって、小学生はその時にはまだ自転車を得たことにはならない。それと同様に、「信が決定したことは、信を獲たことである」とは言いえても、「往生が決定したことは、往生が得られたことである」とは言えない。また、長谷氏は浄土をわれわれが感得するものとする曽我師の説を上げておられるが、その種の説が「唯心の浄土」と呼ばれ「浄土の真証を貶める」ものとして親鸞によって退けられているのは周知の通りである。
氏が紙上に展開された拙著への論評はすべて、この種の教学に基づかずに恣意的に考えられた、氏独特の理屈を展開されたものに過ぎない。このような奇妙な理屈に反論することは無意味であるが、紙面を与えて下さるとの編集部の折角のご配慮なので、以下に親鸞は往生が得られる時を臨終時と理解しており、曽我師や長谷氏の言われるように現世で得られるとは考えていないことを、論拠を上げて説明したい。そうすれば広く読者の方々に「現世往生説」が如何なるものであり、親鸞の往生理解が如何なるものであるかがご理解いただけるであろうし、そのことが長谷氏の批判を一挙に退けることにもなると考えるからである。
親鸞が現世往生を説いたと主張される場合、その主たる論拠は親鸞の著書『一念多念文意』に出る「即得往生というは、即は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。得はうべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。摂は、おさめたまう、取は、むかえとるともうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり」という一文である。
ここには「正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり」と述べられて、「正定聚の位に就くことが往生を得ることである」と言われているかのように見える。そう見えることが親鸞はそう考えたのだとする誤解を生み出した。その誤解から、親鸞は正定聚の位に就くのを現生におけることと考えるのだから、この一文は往生が現生で得られることを述べたものである、とする誤解が生じ現世往生説が生じたのである。
しかしこの一文が往生を現生において得られることを述べるものでないことは、文中の「正定聚」という語に親鸞が「おうじょうすべきみとさだまる」という注をつけていることによって明らかである。つまりこれは、経の「即ち往生を得る」(即得往生)という語は、文字通りに「ただちに往生を得る」ことを意味するのではなく、正定聚の位に就くこと、「往生すべき身と定まること」を意味することを述べた文章である。
それゆえこの一文は、経の「即得往生」の語を文字通りに「真実の信心を得れば直ちに往生が得られる」と誤解されることを懸念して、そう誤解してはならないと注意した文章である。にもかかわらずその注意を理解せずに、文字通りに真実の信心が得られれば直ちに往生が得られることを意味する語と誤解したために、「現世往生説」という親鸞の懸念した謬説が生じ、現在にまでその禍根を残したのである。しかしその謬説が生じたのには成就文そのものにも原因の一端がある。