希代の念仏行者「徳本」に学ぶ(1/2ページ)
浄土宗一行院住職 八木千暁氏
江戸時代後期、紀州の山中で荒行をし、諸国を行脚して念仏教化し、阿弥陀如来の化身とまで言われた徳本=名蓮社号誉称阿弥陀仏徳本〈宝暦8(1758)年~文政元(1818)年〉=がどのような僧であったのか、そのいくつかのエピソードから知っていただければ幸いである。
北海道にある有珠善光寺の第3世弁瑞和尚=生年不明~文政8(1825)年=は、徒弟を教誡するたびに、徳本は即ち弥陀の化身であり、念仏修行者の目指すべき理想の姿であると説示した。ある時、弟子からの「徳本をなぜ弥陀の化身とするか」との問いに、弁瑞は宋代の居士王日休の撰した『龍舒浄土文』の説を引いて「大慈菩薩勧みて西方を修せしむ。偈に云く、能く二人を勧めて修せしむるは自己の精進に比す。すすめて十余人に至れば、福徳すでに無量なり。百と千とに勧むるが如くは、名づけて真の菩薩と為す。又よく万数に過ぐれば即ち是れ阿弥陀なり」と徳本の念仏教化は万数に過ぎるものであるから、弥陀の化身であると答えている。
後に徳本の弟子となった鸞洲が、紀州で修行している徳本をはるばる尋ねた時のこと。鸞洲は徳本に「本願念仏の大利益は、後の世も得ることができるや否や」。これに答えて「念仏の行は他力外ならず。至心に修行すれば、かならず三昧の境地に至る」「かつ、学問を積むことは仏祖の勧賛する処なれども、自行真実ならば学をなすも何の益かあらん。今の人、護法を名として心は名利に馳す。唯自行を励むべし、化他は期すべきにあらず」「汝、いまあい難き法にあう。宝の山に入りて、手を空しゅうして帰ることなかれ」と懇切に教示し、鸞洲は徳本が学ばずして、おのずから仏祖の説に符号していることに驚き、和歌山有田での修行を共にし、徳本の右腕となり生涯を共にすることとなる。
徳本が下総小金の東漸寺に立ち寄られた時のこと。檀林寺院の貫首宣契大和尚は徳本の来着を喜び謁見する。大和尚は、「上人は衆人に日課念仏つとめよと勧め給えり。上人にもみづから日課の数は定めさせ給うにや」と、徳本は「念々不捨に念仏して昼夜しばらくも間断なければ日課を定めることなし」と。大和尚重ねて「念々不捨とは申せども一食の間もなお間断あり、況んや上人は平生念仏の御いとま、説法に力を用ひ給うことなれば、無間修の名は如何にや」と問うと、徳本は忽ち居住まいをあらため「昔聖徳太子は八人の奏問を一斉にきかせ給いしときく。吾は四才の時より無間修の行者なり。たとへ聖徳太子には及ばずとも念仏説法の両途を一時に勤むるに何の難きことかあらん。大和尚には未だ念仏の数の足らぬより、かかる疑ひの生じ給えるなり」と答えた。大和尚はその時、徳本が実地の修行者であることに感服した。