「近代仏教」と「仏教天文学」再考 ― 近代日本の宗教≪12≫(1/2ページ)
天理大教授 岡田正彦氏
円通が梵暦体系化
長期の米国留学から帰国し、現在の大学に奉職してすぐに『中外日報』から依頼されて、「『近代仏教』と『仏教天文学』」と題する論考を執筆したのは2000年のことである。その後、02年にも「須弥山の行方と近代仏教」という論考を掲載していただいた。
どちらにも「近代仏教」という言葉が入っているのは、江戸時代の仏教僧・普門円通(1754~1834)にはじまる「梵暦運動」の歴史を詳細に検討することによって、日本の「近代」さらには、近代の宗教・仏教思想についてより深く考えたい、という意図があったからである。
宝暦年間に生まれ、幼くして出家した円通は、15歳の時に当時西洋天文学の紹介書として広く普及していた『天径或問』を読み、仏典に説かれる平らな宇宙像に疑問を持つようになる。西洋の天文学に見られる地球説は、仏教思想の背景にある円盤状の宇宙像とは対照的であったからである。この疑問を解消するために、彼は各地を渡り歩いて仏典中の天文・暦法を学ぶばかりでなく、土御門家に入門して古今東西の天文・暦学を広く学んだ。
これらの研究を大成して、須弥山を中心とする宇宙像を前提にした仏教天文学の理論を体系化し、文化7(1810)年に主著である『仏国暦象編』(全5巻)を刊行すると、円通を「梵暦開祖」とする人々は「梵暦社」と称するネットワークをつくり、各地で活発な活動を行った。彼らの活動を「梵暦運動」と呼んだのは、昭和初期にこの思想運動を研究した工藤康海という人である。
工藤によれば、円通の門弟はその生前に千人を超えていたとされ、その活動の規模と広がりは、江戸時代後期から明治期にかけての仏教系の思想運動としては特筆すべきものである。
続々見つかる史料
とはいえ、本紙に論文を掲載した当時は、「千人を超えていた」と言われるこの思想運動の活動規模を実証する根拠は乏しかった。しかし、近年では安政年間の仏暦印施や河内国光念寺聖意の活動を中心に梵暦社中の活動実態を調査した、井上智勝氏の論文や平岡隆二氏による『仏国暦象編』の版本調査など、梵暦運動の実態を把握する研究が広く行われている。
また、筆者自身も梵暦社中の活動拠点となっていた各地の寺院の調査を継続し、頒布された仏暦や講義の筆録、「梵暦開祖」として円通を称える頌徳碑や書写された暦本類といった、多彩な梵暦関係資料の整理を進めており、その成果をいくつかの論文にまとめて刊行した。
さらには、全国各地の大学図書館などに所蔵されている梵暦関係文献の調査を進め、現存する刊本や書写本の種類と量の膨大さに圧倒されるとともに、この運動の広がりの規模をこの方面からも実証できる手応えを得ている。梵暦関係文献を積極的にデジタル公開する図書館も増えてきた。
この他、龍井郷二氏が出身寺院である順覚寺に所蔵されていた梵暦関係の古文書を翻刻した史料、本康宏史氏が紹介している誓入寺の倉谷哲僧の事例など、梵暦社中の活動を紹介する史料は続々と発掘されている。紀州の正立寺を中心にした中谷桑南の活動、肥後・善正寺の禿安慧の活動、さらには明治期の梵暦運動をけん引した佐田介石の出版・講演・政治活動などについては、さまざまな角度から研究され、谷川穣氏、梅林誠爾氏、鍋島直樹氏らの論考が発表されている。
また、宮島一彦氏を中心とする「仏教天文学研究会」の方々によって、円通の主著である『仏国暦象編』は注釈付きで現代語訳されている。