戦没者の遺骨帰還と「国の責務」 ― なお海外に113万柱(2/2ページ)
帝京大 学修・研究支援センター准教授 浜井和史氏
海外渡航の自由化(64年)後に現地で多数の遺体や遺骨が野ざらしとなっている状況を目の当たりにした遺族や戦友たちは政府の姿勢を批判し、自らの手で遺骨の収容を行うようになった。こうした状況に対して政府は、67年度になって収集団の派遣を「再開」したが、それは「国の責務」にもとづく主体的な措置というよりは、遺族や戦友たちの声に押された受動的な対応であった。「再開」後、政府は「国の責任」を明確にする方針を策定したが、その主たる目的は民間ベースによる収集団渡航の動きを抑制することにあり、遺骨収容の継続にはむしろ消極的であった。しかも政府は、「戦没者の遺骨を徹底的に捜査すること」は「財政が許さない」(「日米了解覚書」68年3月)として、改めて遺骨収容の幕引きをはかろうとしており、あとは現地の厚意に任せることで済ませようとしていたのである。
その後、72年1月にグアム島で横井庄一氏が「発見」されたことを契機として、再び未帰還の遺骨に対する国民の関心が高まり、73年度から新たな計画のもとで遺骨収容が推進されることとなった。この計画も75年度までとされていたが、なお多くの遺骨が見つかったことから、76年度以降は、「遺骨残存の確実な情報があり」「相手国の事情により収集が可能となった場合」に収容を実施することとなった。そしてこれ以降、2010年に「硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム」を設置して硫黄島における集中的な遺骨収容を実施するまで、「国の責務」について政府が積極的に明言することはほとんど見られなくなるのである。
今回閣議決定された基本計画では「戦後70年を経て戦没者の遺族が高齢化するなか、一柱でも多くの戦没者の遺骨を早期に収容又は本邦に送還し、戦没者の遺族に引き渡すことは、国の重要な責務である」と述べている。確かに、政府による海外戦没者の遺骨処理は、「国の責務」を意識するところから出発し、それは首相をはじめとする政府当局者によってしばしば強調されてきた。しかし、従来の政府の取り組みは最終的な目標を見据えた長期的なグランド・デザインにもとづくものではなく、またなぜ国が遺骨帰還事業を行わねばならないのかという、「国の責務」に対する徹底した内省から手を尽くしてきたともいえないものであった。
結局、戦後を通じて政府には個々の戦没者に対する責任意識、すなわち多くの人々を無謀な戦争に送り出したことへの責任意識が希薄であり、膨大な未帰還の遺骨をいかに処理すべきかという命題に対して、国家として真摯に向き合ってこなかったのではなかろうか。
収容された遺骨数のピークは、およそ戦後30年を迎えた1975年前後であり、遺体や遺骨の風化を考えると当該期の措置が極めて重要であったといえる。その意味で今日なお多数の遺骨が海外に残されている最大の原因は、「国の責務」を唱えながらも場当たり的な対応をとってきた政府の姿勢にあったといわざるをえないだろう。そして今日において、政府がまた「国の責務」を持ち出して新たな施策を打ち出すのであれば、まずは過去においてそれを果たしてこなかった歴史を直視し、検証することが必要ではないだろうか。