面壁坐禅 ― 坐禅の変遷を考える(1/2ページ)
花園大国際禅学研究所客員研究員 舘隆志氏
禅宗は中国で興った仏教宗派の一つである。中国で菩提達磨を祖とする集団は、その後いくつかの系統に分かれて展開し、後に禅宗と呼称されるようになった。
禅宗は達磨の系譜を受け嗣ぐ宗派であり、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を前提として、「仏心」を師匠から弟子へ伝えた。ゆえに、仏心宗とも呼ばれた。
禅僧は必ず達磨の系譜を受け嗣ぐものを指し、単に坐禅をする人を禅僧とは言わない。その達磨は、インドから中国に渡って仏法を伝えた人であるが、残された系譜を遡ると、釈尊にまで辿り着くことができる。
およそ2500年前、インドのシャーキヤ(釈迦)族の王子ゴータマ・シッダールタは、王城を抜け出して長らくの苦行を中心とした修行を行う。しかし、苦行では悟ることができずにこれを捨て、インドのガヤ村の菩提樹の下で坐禅をし、悟りを開いて仏陀(覚めた者)となった。この地は、後に仏陀の悟った地としてブッダガヤと名づけられ、仏跡や寺院が建立され、現在は世界中の仏教徒が巡礼する仏教の四大聖地の一つとなっている。
禅宗では、釈尊(仏陀)の説法以上に、釈尊の心という絶対の真理を代々伝えていくことを重視した。その絶対の真理を「正法眼蔵、涅槃妙心」と言い、その内容は、経典に記されなかった「教外別伝」の教えであり、文字だけでは説明することのできない「不立文字」の教えであった。この「教外別伝」「不立文字」の教えを、師匠と弟子が坐禅修行を通して、「以心伝心」心から心へ直に伝えるのである。
唐代の文献が初出
達磨を祖とする禅宗の記録に、「面壁」の言葉が表れるのは、唐代の黄檗希運(?~850)の『宛陵録』が最初であり、文献上からは少なくとも宋代以降の禅者は面壁坐禅をしていたと考えられる。しかし、ブッダガヤの菩提樹の前には恐らく壁はなかった。
それでは、なぜ壁に向かうようになったのだろうか。これは、中国の禅宗初祖、菩提達磨が嵩山少林寺の洞窟の中で壁に向かって坐禅したという「達磨面壁」の故事に基づくものである。現存最古の禅籍『二入四行論』には達磨の禅法として「凝住壁観」と記されており、ゆえに達磨は「壁観波羅門」とも称されるようになった。この「壁観」は必ずしも「面壁」を指す言葉ではなかったが、後に「壁観」は「面壁」と同一視されるようになり、ついには「面壁」そのものが禅僧の坐禅を指す言葉として用いられていたらしい。
中国の禅僧たちは、「不立文字」の教えを伝えるに際し、さまざまな指導方法をもって法を説いた。その基本的な指導方法が受け継がれて、のちにその系統が禅宗の宗派として呼称された。五家七宗と呼ばれるものがそれで、代表的なものに、曹洞宗と臨済宗があるが、当時は修行生活には相異はなかった。その後、長い年月をかけて少しずつ現在のような違いが生まれることになる。
現在、日本には曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の三派が伝わっているが、それぞれの坐禅はどう違うのだろうか。
一般的によく知られている例で言えば、曹洞宗は壁に向かう面壁坐禅であり、臨済宗や黄檗宗は壁に向かない坐禅で、対面坐禅と呼ばれている。すなわち、壁に向かうのか否かということで大別されている。これは、一般的な禅に関する本に必ずといってよいほど記されていることである。
曹洞宗の道元(1200~53)は、中国に留学して禅を学んで日本に伝えたが、留学中に天童山で学んだ坐禅は面壁坐禅であった。また、その著作の中でも面壁坐禅を義務づけているように、日本で実践し伝道したのも面壁坐禅であった。さらに、その後の瑩山紹瑾(1264~1325)も面壁坐禅を行じていた。現在の曹洞宗の坐禅はこれを受け継ぐもので、それこそが曹洞宗の特色ともなっている。