大正期「親鸞ブーム」を問い直す ― 近代日本の宗教≪8≫(1/2ページ)
龍谷大世界仏教文化研究センター リサーチ・アシスタント 大澤絢子氏
浄土真宗の宗祖・親鸞は、鎌倉仏教を代表する宗教者の一人である。現存する史料において、親鸞自身がその生涯について語ったものはほとんどない。そのため彼がいかなる人生を歩んだのかは、未だ明らかでない点が多い。
そんな親鸞だが、長い時間をかけて語り継がれ、真宗の宗祖にとどまることなく表象されてきた。特に近代以降、多くの文学者たちが親鸞を描こうと試みただけでなく、思想家や哲学者たちの熱い視線が親鸞やその思想へと向けられていき、時として親鸞は、キリスト教や社会主義、あるいは日本主義の立場からも読み込まれていった。
そこで描き出された親鸞像が、史実上の親鸞とは離れたものであっても、そのイメージは紛れもなく親鸞として語られ、親鸞像は大きく膨らんでいったのである。歴史上を生きた親鸞は確かに存在するが、この時期の親鸞像はそれにとどまらず、親鸞という豊富なイメージを通して捉えられていった、とてもユニークな存在と言えるだろう。
とりわけ親鸞は、日本において広く一般に名の知られた宗教者の筆頭に位置づけられる。よってそのイメージは、ある特定の信仰に強く依拠しないながらも、意識的/無意識的に宗教空間に身を置いてきた日本人と宗教との関わり方を考える際にも、重要な示唆を与えてくれるはずだ。
そんな親鸞像の大きな転機が近代である。親鸞と他の宗教者との大きな違いは、そのイメージが早くから完成され、確たる信仰の対象とされてきた点にあるが、近代ではそうしたものとは異なる親鸞像が次々と展開されていった。
親鸞に関しては、死後比較的早い時期にその生涯が絵巻(『親鸞伝絵』)としてまとめられており、本山から末寺までが同じ絵相(「御絵伝」)を仰ぎ、同じ伝記(『御伝鈔』)を読み上げることによって宗祖のイメージが固定化されてきたことは、日本宗教史上においてもきわめて特異だと言える。例えば近世では、親鸞を題材とした浄瑠璃が東本願寺によって上演停止を求められており、好き勝手に親鸞を語ってはならなかった事情も垣間見える。
ところが近代に入ると、そのような規制の動きは見られず、多種多様な親鸞のイメージが生み出されていった。とりわけ近代の親鸞像を語る際に欠かせないのが、明治44年の親鸞650回御遠忌法要である。この前後に親鸞関連の書物が数多く刊行され、史学分野においても、親鸞の実像をめぐる議論が活発になっていった。
史学の立場から浮き彫りにされていく生身の親鸞に対して、信仰の立場からそれぞれの思い描く宗祖親鸞聖人像が語り出されていったのもまさにこの時期である。そうした親鸞像のなかには『歎異抄』に寄せたものも多く、『歎異抄』に記された親鸞の言葉が親鸞像を構成する重要な要素に組み入れられていった。
そうしたなか登場したのが、倉田百三の『出家とその弟子』(大正6年、岩波書店)である。『歎異抄』を素材とした本作は瞬く間に人気を博し、大正年間だけでも百版を超える大ベスト・セラーとなった。性欲を中心とした倉田の煩悶が投影された本作には、愛や死に対する淋しさを訴える、彼の私的な親鸞像が展開されている。ここにはキリスト教の強い影響も見受けられ、キリスト教と出会い、精神と肉体、信仰と自己との二元対立を抱えた近代知識人倉田の苦悩も見いだせる。
この『出家とその弟子』が誘因とされるのが、大正11年からの数年間に起こった「親鸞ブーム」と呼ばれる現象である。この期間に小説家、時代物作家、劇作家がこぞって「親鸞」の名を掲げた作品を立て続けに発表し、各地で舞台が上演されるなど、多様な親鸞像が一挙に花開いたのである。