信教の自由と政教分離 ― 近代日本の宗教≪5≫(1/2ページ)
駒澤大名誉教授 洗建氏
信教の自由は、日本に完全に定着したのであろうか。表面的に見れば、戦前のような大規模な宗教弾圧は見られないし、国体の思想などを強制されることもないから、現在ではもはや問題はなく、今さら論ずべきこともないように見える。しかし、残念ながら信教の自由の理念は、日本で生まれ育ってきたものではない。近代に入ってから、ヨーロッパ近代法の理念として継受したものである。
ただ、信教の自由の受け入れは、決して順調に行われたわけではない。尊皇を掲げて倒幕を果たした明治政府は、天皇の神聖な正統性を権力の基盤とするためには、神道を国教化し、宗教を統制する政策を不可欠なものと見做していたので、当初は信教の自由を受け入れるつもりはなかった。浦上キリシタンの弾圧や、切支丹禁制の高札設置などは、当然欧米諸国の反発を招き、「信教の自由を認めないのは野蛮国であり、文明国とはいえない」とする批判は、不平等条約改正という外交課題を抱える政府にとっては無視できないものだった。
一方、仏教宗派にとっても、神仏分離、社寺領上知令などで経済的打撃をうけ、さらに神仏合同布教の名の下で、政府主導の大教宣布運動に駆り出され、自由な仏教活動が許されなかったことは、不本意なことであった。岩倉具視の欧米視察団から帰国した島地黙雷は「政教を混同し、政府が新宗教を創り出すことの誤り」を批判し、最大の仏教集団である真宗4派が大教院を離れて、独自の活動をすることを宣言した。
このような内外の圧力を受けて、明治政府がやむを得ず信教の自由の保障に言及したのが、1875(明治8)年の「信教の自由保障の口達」である。ここで信教の自由という言葉を使っているが、その内容は「各教団がその教義に基づいて国民教化を自由に行うことを認めるが、そのように行政の保護を受けている以上、天皇の統治を妨げないばかりではなく、民衆を善導して天皇の政治を翼賛するのが、宗教家たるものの義務である」という各管長への通達であり、西洋で成立した「信教の自由は各人の生得人権である」という理念とは、全く異質なものであった。
本来「信教の自由とは、国家が与えたり奪ったりできるものではなく、人間に生まれつき備わっている自然法上の権利である」という理念を、明治政府が知らなかったわけではない。72(同5)年の森有礼の建白書に「欧米では信教の自由は生得人権とされている」ということが明確に述べられているのだから、政府は意図的に歪曲したと言うべきだろう。
89(同22)年に制定された大日本帝国憲法ではさすがに「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(第28条)と定めているから、文言上は国民の権利として保障したと言っても良いだろう。しかし、安寧秩序と臣民たるの義務という二つの制限条項を設けているので、自然権として保障したわけではなく、国家が恩恵的に権利を与えるという文脈での権利であった。
現行憲法の「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(第11条)という人権保障の仕方と比較すれば、その違いは明白である。実際、明治憲法が信教の自由を保障しても、宗教公認主義はそのまま維持され、非公認の宗教は宗教に類似しているが本当の宗教ではない「類似宗教」として、信教の自由の対象から除外されていたし、事実上の公認宗教とされたキリスト教も地方長官が個別教会を許可していたに過ぎず、教派は1939(昭和14)年の宗教団体法成立まで公認扱いされていなかった。
日本の敗戦と連合国軍の占領政策により、大きな変革がもたらされた。ポツダム宣言に示された占領目的、すなわち「軍国主義の除去、民主化の推進、基本的人権の保障」を実現するため、GHQは45年10月「人権指令」により、国民の自由を抑圧する法規として、治安維持法、刑法の不敬罪、宗教団体法などの廃止を命じ、12月には「神道指令」により国家神道の解体、さらに政教分離を命じた。