現代に息づく前近代 ― 「自然=神仏」を思い起こそう(2/2ページ)
京都ノートルダム女子大非常勤講師 大喜直彦氏
歴史的に日本人がつきあってきた神仏とは、神社仏閣に閉じ込められたものではありません。神仏は身近に存在して、絶えず人間と交渉していたのです。それは自然であり、動植物、虫、様々でした。
前近代(中世と近世では差はありますが)は、神社仏閣以外にも身の回りに多く神仏が存在していたのです。むしろ誰が設置したかわからない街角のお地蔵さんや路傍の小祠や、迷信や荒唐無稽といわれるようなことに、当時の人びとの身近な信仰があったのです。
神仏を否定し、そうでなければ、その存在をかなり小さな世界に押し込めてきたのが現代社会です。西欧的自然観は現代社会においては支配的で、確かに今は合理的にものを考える社会となりました。でも前近代的な自然=神仏の感覚は今も残っていることも事実なのです。
例えば、京阪電車萱島駅(大阪府寝屋川市)には、ホームとその屋根を突き抜けて、さらに天へと伸びている樹齢700年ともいわれる大クスノキがあります。穴を開けたホームを持つ駅は日本でここだけでしょう。
この大クスノキは地元萱島神社のご神木で、1972年の高架複々線建設の際、同駅が南側へ移動する計画となったのです。そこには萱島神社があり、京阪電鉄は神社境内と隣接地を買収することになりました。その際、その地にはこのご神木があり、伐採することになりました。しかし地元で保存運動が起こったのです。
結果「地元の皆さんのクスノキに寄せる尊崇の念にお応えし、新しい萱島駅と共にこのクスノキを後世に残すことにしました。(中略)樹木がホームと屋根とを突き抜けるという、全国に例をみない姿となりました」(京阪電気鉄道株式会社製作「萱島の大クスノキ」解説の立札)。ホームに穴を開けてまで、神木を伐採できない心情、ここに木=神と考える自然観が生きています。
現代でも私たちは動物に不思議な力を感じているのではないでしょうか。例えば、映画やドラマで、犬が幽霊や魔物を察知すると吠える場面がありますが、これは今でも犬が不思議な力を持つと考えている証拠でしょう。
また稲荷神社のキツネ=神の使いは、今でも普通に受け入れられています。すでに絶滅した日本オオカミが神の使いである、埼玉県秩父市の三峰神社もあります。つまり動物は今でも人間にとって神であり、身近な、そして共生関係の生き物でもあったのです。
このように依然、私たちの生活の中には前近代社会が厳然と残っています。私は非合理的な社会や非科学的な社会を肯定したいのではありません。中世・近世の封建制の時代が終われば、近代社会に発展する、日本人はそれを「進歩」と理解してきたのではないでしょうか。そして非合理的社会を克服し近代化する、それを「進歩」と考えたのではないでしょうか。自然に勝つこと、それが「進歩」、この考えが人間社会にも持ち込まれ、勝つことが正しく、負けた側には目もくれず、さっさと進む、それが「進歩」と考えたのではないでしょうか。
私たちはもう一度前近代の人びとがきわめて自然=神仏を身近なものとして感じ、そして信仰に基づき、人と人との絆を形成して生活してきたことを思い起こす必要があるように思います。はき違えた「進歩」から切り捨てられた世界を見直す必要があるのではと。
切り捨てられた世界には、「進歩」とされた世界では絶対にわからないものがあり、そこにこそ今の課題や問題を解決するヒントがあると思うのです。今こそ本当の「進歩」を求める時代、未来のために、そのことを強く希求したいと思うのです。
【参考文献】大喜直彦『神や仏に出会う時』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館、2014年