宗教番組の制作に携わって半世紀 ― 教えを受けた人たちの言葉(2/2ページ)
元NHKディレクター 金光壽郎氏
何でこういう返事が返ってくるのか理由があるに違いないと考えて、和田先生の経歴を調べてみました。旧制中学四年生修了で旧制浦和高校へ入学した和田青年は、授業には楽についていけるものの、先輩や同級生と毎夜のように繰り広げられる人生論や哲学論には全く太刀打ちできない自分であることに気がつきました。そして「今はみんなに後れを取っているが、自分はいかに生きるかという問題を自分の生涯のテーマにしよう」と決心します。
それからいろんな宗教を探した末、「老少善悪賢愚を選ばず救う」という念仏に集中することにして10年、昼夜念仏を続けましたが、とうとう強度のノイローゼになって追い詰められてしまいました。それが、ある機縁で、自分の心の中であれこれ考える姿勢自体が真実を自覚する邪魔をしていたことに気がつきました。その時の変化について後年、次のように言っています。
「ある時――自分のいのちもいよいよこれまでと思って覚悟を決めたとき、不思議に子供の時のような気持ちがよみがえってきました。『フフフ』から『ワッハッハ』となって『なあんだ、夢を見ていたんだ』という気がしました」
じっと自分の心の中を見つめて、その中に映っている外界のものを観察していたのが、今度は直接にものを見るようになったといわれます。
「天地ガ ワガモノデアル」
この心の転換について、後年教えて頂いた鈴木大拙博士の次の言葉が大事なことを指摘しているように、私は思います。
「意識はフォーカス。そこだけしか解らぬ。フォーカスを可能にしている世界は無限大の円である。フォーカスをエゴといってもよい。エゴだけを見ているから妄想になり、妄想が妄想になる。人間は妄想を面白がる」。そして「人間は解釈を信じる。いのちの流れを止めて理解しようとするが、有無をいわさぬ事実を認めるのが信である」。
人間を生かしている無限大の世界の力、和田先生が“いのち”という言葉で表現する無限大の働きに気づくことを、自我の意識が邪魔をしている。その自我意識の力が消える時、真実の相が見えてくるという事実が、釈尊以来の伝統的宗教に説かれているところではないかと私は思っています。
福井県鯖江市の念仏詩人、竹部勝之進さんの詩もその消息を伝えているようです。
垣ヲスル
垣ヲスル/垣ヲシテ/垣ノウチダケヲ/ワガモノト思ッテイルガ/ソウデハナイ/天地ガワガモノデアル
クラサ
ハズカシイコトデアリマシタ/クラサハ/ワタシノクラサデアリマシタ
タスカッタヒト
タスカッテミレバ/タスカルコトモイラナカッタ
拈華微笑
ワタシハ/コノママデヨカッタ
世界の宗教には様々な表現形態があるようですが、私には、仏とか神と表現される無限の絶対界と意識の相対界との関わり方に表現の違いはあっても、伝統的宗教の中の右に述べた基本的関係は今も存在しているように思えます。