弘法大師少年の日 空海は大峯山に登っていた(1/2ページ)
奈良県立橿原考古学研究所長 菅谷文則氏
昨年は弘法大師空海が高野山を開かれてから1200年にあたる仏縁の年だったので、4月から5月にかけて大法要が行われた。
空海が高野山を開くことができたのは、弘仁7(816)年6月19日に嵯峨天皇に上表して高野の地を賜ったからだ。このことは、上表文の全文が「続遍照発揮性霊集補闕抄巻9」に残されていることからはっきりとしている。上表文の読み下し文は、次のとおりである。
「空海少年の日、好んで山水を渉覧して、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向つて去ること両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり」
高野の地を賜ることを願う上表文は、嵯峨天皇の勅が下され、認められた。こうして、現在の高野山の地は真言の霊場となったことは、よく知られている。
上表文には、「空海少年の日……」と書かれている。少年の日がいつかについては議論があり、確実な年齢を決めることができない。それを知る手掛かりの一つは、律令制では男子は20歳から60歳までが正丁として税を支払い、兵となり、力役が課せられた。立派な大人である。数え年20歳以下は少年となる。
仏門に入る前の空海は、佐伯眞魚という名前であった。空海は延暦10年に律令制の官吏養成の大学に入っている。大学入学の年齢は、やはり令によって13歳から16歳と定められていた。空海の経歴は不明の点が多い。確実な史料では、上表文による少年の日から、遣唐使の留学生となる直前の東大寺における授戒まではよく分からず、議論が多い。この小文はこのことを議論するものではない。空海少年の日に、吉野から南へ1日、さらに西へ2日進んだことによって、高野の地に到着していたということについて、私の意見を述べたい。
従前から、弘仁7年の上表文の後半、つまり高野を賜ったことは、事実として認められていたが、前半についてはほとんど議論されることはなかった。
平城京から長岡京に遷都されたのが、延暦3(784)年であり、この前後に空海は大学に入学している。空海少年の日は、まさにこの頃であったといえる。ところが、上表文による高野への出発地点は吉野である。これまでの歴史資料では、吉野を起点としてから南へ1日の解釈ができなかった。吉野の地が、吉野川であれ、吉野離宮の宮滝であれ、その南は果てしなく続く山また山であった。この吉野山地を修行の場とする修験は、早くとも9世紀以降に始まったと考えられていたのである。
昭和58~59年に吉野山から二十数キロも南の大峯山(海抜1719メートル、古くは金峰山)の重要文化財大峯山寺本堂の半解体修理が実現された。その修理工事に合わせて、本堂内陣と外陣の地下発掘調査を実施した。その結果、大峯山頂に奈良時代の天平末から天平勝宝(749~757)頃には、確実に宗教施設が形成されていたことを確認できた。西暦900年頃には、現在の大峯山寺本堂の外陣の中央に方形に石を組んだ護摩壇が造作されていた。その後も、わたしたちは吉野山から熊野までの修験の奥駈けの考古学調査を進め、多くの新しい事実を確認した。
大峯山頂から、海抜1700~1800メートルの山稜を南へ、ほぼ9時間から10時間で弥山(1895メートル)に達する。そこでも8世紀、つまり奈良時代中頃の土器類が出土したことを確認した。吉野から弥山までの山稜には、奈良時代中期には、宗教活動が行われていたことを考古学の調査によって確かめることができたのだ。