魔法少女は解脱の夢をみるか? ― 自らの欲望解放が世界を変える(1/2ページ)
東京大共生のための国際哲学研究センター特任助教 川村覚文氏
映画『劇場版魔法少女まどか☆マギカ―[新編]叛逆の物語―』(以下『新劇場版』)の人気がいまだ健在である。この映画は、成人を対象に2011年の深夜に放送されたアニメ番組『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)をもとにしたものである。その人気は大変高く、13年10月の公開初日観客動員数で第1位を記録し、全体的な興行収入も20億円を突破することとなった。DVDやブルーレイと言った映像ソフト版も大変好調な売れ行きである上、最近では一般人が作成したあたかも『新劇場版』の続編であるかのような動画がネット上で大変話題を呼んでいる。
この作品が興味深いのは、興行的に大変成功しているという点だけではない。それ以外にも注目すべきなのは、本作品が(意外にも仏教的な)宗教的意匠を大変多く利用している、という点にある。つまり、一見したところ宗教のポピュラー文化への影響といった分析が容易な作品であり、しかも現代の若者層が宗教的なものに実は無意識的に惹かれているということの例証として、本作品の訴求力が解釈可能に見える作品であるということだ。
具体的に見てみよう。『まどマギ』の基本的なプロットは次のようなものであった。猫のような愛らしい風貌を持つキュゥべえが、思春期の少女たちに魔法少女となるように自身との契約を促す。キュゥべえいわく、この世を破壊する魔女と戦い、「ワルプルギスの夜」と呼ばれる世界の破滅を避けるために、魔法少女は必要な存在であるという。しかし、それに従って魔法少女となった少女たちはやがて残酷な運命を知らされる。
それは、実は魔女とは、魔法少女たちがそれを倒す過程において溜め込んでしまう穢れのせいで、彼女たちが必然的にその存在へと最終的に変身してしまうものであるということだ。その事実を知った魔法少女たちはこれまで自身の存在を世界の「希望」として捉えていたのから一転、絶望する。しかも、キュゥべえはそのような絶望を抱くように、わざと少女たちを魔法少女へと仕立て上げていたのである。
キュゥべえは、実は宇宙全体の保全のために存在する地球外生命体「インキュベーター」であり、そして魔法少女たちの抱く「希望」から「絶望」の「感情の相転移」は、宇宙保全のために必要な莫大なエネルギーを生み出す源であるため、それの採取を狙って魔法少女になるように少女たちを促していたのである。
ここで見られるように、この宇宙の成立は「絶望」によって支えられている、という大変ペシミスティックなテーマが『まどマギ』には流れている。しかもその絶望は、希望的存在であるはずの魔法少女たちが、その活動に必然的に伴うある種の「業」によって、魔女に変身するが故に生じるものである。そして『まどマギ』終盤の展開は、この絶望の苦しみからの救済をめぐって主人公鹿目まどかがどのような決断をするのか、ということに焦点が当てられる。
魔法少女として契約する際には、その見返りに一つだけ好きな願いを叶えられるのだが、物語の終局でまどかが契約する際に口にする願い事は、世界から全ての魔女を生まれる前に消すこと、であった。それは、そもそもこの宇宙の理を根本的に超越しようとすることであり、魔法少女が魔女へと変身してしまうという絶望が起こる前に、彼女たちを救済するという願いである。
ここで、この娑婆世界にあること自体が苦であるにもかかわらず、その娑婆世界の存続を願わずにいられない衆生と、そのような「業」を持つ衆生を苦しみから自身の願力によって済度し安心を与える超越者、といったような宗教的・仏教的世界観に似たモチーフを見て取ることが可能であろう。
しかも『新劇場版』においては、このような救済はまさに「解脱」という言葉を使って説明されている。そしてこのような解脱は、まどか自身がその願いによって、「円環の理」という概念になったことによって可能である、ということなのだ。『まどマギ』の終局において、主人公まどかは全ての魔法少女を救済し解脱させる願をたて、そしてそのような救済を可能とする概念的なある種の「法」へと彼女自身解脱した。