宗教上のタブーと言論・表現の自由 ― 表現者は自制、配慮を(1/2ページ)
専修大文学部教授 山田健太氏
仏週刊紙「シャルリー・エブド」の預言者ムハンマドをめぐる風刺画が理由で、編集局が襲撃され犠牲者を生んだ事件は、日本でも宗教と表現の関係につき大きな課題を投げかけることになった。もちろん、いかなる理由があったとしても、言論に対して暴力で対抗すること、とりわけ表現者を殺害するようなことは絶対に許されない。したがって、表現の仕方に問題があったとか、表現には限界があるということ自体、今回のテロリストが提示した土俵にのった議論をすることともいえ、好ましいことではないと思う。
フランスで370万人が抗議デモを行い、追悼号が800万部も増刷され、市民が列をなしてこれを購入したという事実は、まさにこうした表現内容のいかんを問わず強い抗議の意思を示したものでもあって、これこそが今回の事件に対する答えそのものであると思うからだ。そのうえで「これから」を考えるにあたり、あえていくつかの素材を提供してみたい。
「内心の自由」と呼ばれるものがある。何を信じるか信じないか、好きか嫌いか、そしてどの神を信じるか否か、その人が心の中でどう思おうがそれは完全に自由であり、同時にそれはいかなることがあろうとも、他人がいっさい侵してはならない絶対的な自由である。日本ではこれを「思想・良心の自由」と呼び、憲法19条で保障されている。実はこれとセットで捉えることができるのが21条の「表現の自由」であり、その関係は、内向きの自由と外向きの自由の関係である。
この内と外の関係は、その他の「精神的自由」にも当てはまる。学問の自由であれば、内向きが「研究の自由」であり、外向きが「教授の自由」である。そして宗教の自由でも同じことが言え、内向きが「信仰の自由」であり、外向きが「布教の自由」であるとされている。これらの自由は、いずれも戦中にとりわけ厳しい弾圧を受けたことから、現在の憲法ではことさらに手厚く保障している自由(権利)群だ。
それはたとえば、いま挙げた自由をそれぞれ個別に明示的に保障していること自体にも表れているが、とりわけ政教分離を定めたり、検閲や盗聴を禁止したりと、「危なそうな」箇所を二重に守るような構造をとっている。このように憲法の人権保障、とりわけ市民的自由と呼ばれる部分は、その国の過去の歴史、しかも憲法制定の直前15年ほどのその国の歴史に負っているのが一般的である。
だからこそ、フランスでは人権宣言以来とりわけ「脱宗教性」を大切にして、政教分離とりわけ宗教からの自由(解放)が国家の存立基盤として重要視されてきた。日本でも国家神道の危険性を排除するために、政教分離を定めたものの、靖国問題にみられるようにその「曖昧さ」がみられるのとは対照的だ。その点からすると日本の場合は、内心の自由自体への尊重も社会全体で稀薄であるともいえる。その表れは、教育現場における国歌斉唱や国旗掲揚に対するいわば強制の問題として議論されている。米国などでは「歌わない自由」が判例上確立しているのに比して、むしろ日本では従う義務が強調される傾向にあるからだ。
さらに言えば、学問の自由に関しても、教科書検定や採択の方法が徐々に変更され、公教育の政治的中立性がうたわれた戦後の基本方針は様変わりし、いまやいかに政府の方針をきちんと間違いなく教育現場に浸透させるかが問われる状況にある。表現の自由も宗教の自由も、いずれも国家からの自由という面では全く同じであるが、あえていえばその国家からの距離は、事件が起きたフランスと日本では随分と異なることを知るのである。すなわち両国では、自由を語るにあたってのスタート地点が、内心の自由にしろ表現の自由にしろ、すでに大きく異なっている可能性があるということだ。