宗教は人々の絆をつくりあげるか ― ジェンダーの視点不可欠(1/2ページ)
多摩大グローバルスタディーズ学部教授 小松加代子氏
突然の災害によって身近な家族や知り合いを亡くしたり、家や共同体が解体してしまう状況の中で、絆やコミュニティーの再生といった言葉が期待を持って用いられている。そして無縁社会とされる現代社会の問題への解決策の一つとして、地域の人々のつながりを作り出すことに宗教が貢献できるとするソーシャル・キャピタル論に基づいた宗教研究が発表されている。
そこでは、現代社会の問題に対して、宗教者、宗教学者は何ができるのか、という問いが発せられている。中外日報でも、宗教の社会貢献についてはよく取り上げられているので、ご存知の方は多いだろう。しかし、宗教の社会的貢献という言葉に違和感を覚えるのは私だけだろうか。社会貢献する宗教という場合の「宗教」とは、いったい何を指しているのだろうか。
そもそもソーシャル・キャピタルの概念は、1980年代にブルデュー、コールマンなどによって用いられた言葉である。それらに注目して実証的な手法に持ち込んだロバート・パットナムは93年に著した『哲学する民主主義』で、投票率、新聞購読者数、合唱団やサッカークラブの数などから市民の積極的社会参加が多い地域では、経済も発展し、犯罪率も低く、行政も効果的になると主張した。
このパットナムのソーシャル・キャピタル論が日本でも引用され、数値に訴えることで分かりやすいことや、人々の結びつきが失われていることに対する不安感などから、ブームのようになった。
一方で、ソーシャル・キャピタル論にも様々な批判が寄せられている。社会のネットワークが強く働くほど、弱い立場の者がその力関係から逃れられないことは、震災後の被災地で女性たちの見えない負担が増加する様子を伝えた竹信三恵子の著作からもうかがい知ることができる。被災者の女性たちが三度の炊事を要求される、震災によって避難してきた親戚の介護、増えた家族の食事、そして震災による仕事を追われた夫や息子たちの不機嫌に耐えるなど、被災者である女性が被災者の男性をケアする役割から逃れられない。
さらに職場では最初に首を切られる。震災で家族が不安に陥っている時、家庭の女性はそのケアに必死で、「労使交渉」のような負担は増やせない。しかも女性の家庭の労働は「やって当然の無償の仕事」とされる。したがって女性は政治に参画しないのではなく、参画できないのである。このように社会的関係の中には権力関係が存在し、弱者が強者と同じ利益を得るわけではないことが、ジェンダーの視点から批判されている。
宗教がソーシャル・キャピタルとして働くと考える人々は、神社や寺院、教会の社会的機能を強調する。宗教施設が緊急時に避難場所や救援活動の拠点となる、そして市町村、民間組織などと連携をする、といったように、宗教団体は社会的な役割を担っている。また、神社やお寺の祭礼や行事などが地域活性化と結びつくといった地域社会での役割もある。
ただし、そのことから、宗教が地域社会の人々のつながりの創造や再生を導くという結論を導き出すことは短絡的である。ジェンダー研究者がソーシャル・キャピタル論に対して批判した問題点は、ソーシャル・キャピタルとしての宗教観にも、そのままあてはまるからである。
宗教が、無縁社会とされる現代社会の問題に対する解決方法となり、ソーシャル・キャピタルとして役立つと主張しているのは、そもそも誰なのだろうか。実は、宗教の社会貢献への「要請」は、一般社会から直接生まれてきたものではない。「自らの存在意義を模索しつつ、社会の役に立ちたいという志向性を持った社会活動志向の信徒や宗教研究者から発している」と、宗教の社会貢献の研究に関わっている矢野秀武は的確に指摘している。神社や寺院、教会は世の中の役に立っているといった発信は、あくまでも宗教団体側からの主張なのである。