“見えない力”紡ぐ寺院 ― 宗教者100人アンケート(2/2ページ)
ファイナンシャル・プランナー 勝桂子氏
後半では、「今の日本で、生きづらさを感じる最大の理由は?」というフリーアンサーの質問を投げかけた。功利主義の競争社会ゆえの弊害を指摘する声が多数。自己中心的社会、個人主義、勝ち組負け組、経済優先、時間に追われ生きる意味を考える時間が持てないなどの用語が、複数の方から挙がった。宗教の教えはその対極にあり、利己よりも利他を尊び、縁や和を結ぶものであるとのコメントも多数寄せられた。
続いて、「宗教は現代人に癒しを与えることができますか?」という質問を出した。「はい」が77%。ここでも、「癒し、という言葉に表面的な感触があり、深い悟りとはかけ離れた印象がある」との理由で「いいえ」を選んだ方が6%。残り17%は「どちらとも言えない」だった。その理由として、「可能と思うが、過度の期待は禁物。宗教は、求める側の主体性が大切なので」「宗教は人生の“支え”なので、(それさえあれば万事OKと)過度に期待されては困る」など。一般のかたが“宗教”と聞くと身構えてしまう風潮のなか、カルト的宗教集団とは異なるスタンスを示す、細かな気遣いが感じられた。
月刊『一個人』の読者層は50代以上の中高年(主に男性)。「葬儀に僧侶は呼ばなくていい」「無宗教葬でいい」と主張する世代を含んでいる。このアンケートが、「お布施の実入りを熱心に勘定する僧侶ばかりではない」という当たり前の事実を知っていただくことに少しでもつながればと願いながら、ページをまとめた。
遺言や相続の顧客と話して実感するのだが、昨今の中高年層には、神や仏や“あの世”といった「見えないもの」を信じない人が多い。死んだら何もなくなるのだから、葬儀に金銭をかける必要はない。散骨で構わない、直葬でいい、と言い切る。
しかし、景気をわかりやすく測る数字が実はとてもあやふやで、実体がなくても数字だけが伸びてしまう場合があるということ。反対に、たとえば“あの世で亡き親友と再会できる!”と信じることで、目前に迫った自らの死が、苦から楽しみを含むことへと転換するであろうこと。双方に思いをはせれば、後者のほうが賢く、生きる力をリアルに増やすことに貢献するとわかる。前者から後者への意識の転換を実現させるのは、宗教の力。いまほど、その力が求められている瞬間はない。
各地のご住職や地域活動家から、活性化のための企画の相談をいただく。どの地域でも比較的容易に実行可能で、東海地方で具体化一歩手前までいっている事例として、お寺で「自分史講座」を行い、高度経済成長を支えた中小企業経営者や個人事業主のエピソードを蓄積する、というものがある。
ドーナツ化で檀信徒は遠方に点々としている。親世代だけが町に残り、子や孫は都会や海外にいる。こうした時代の過去帳に代わるものとして、檀信徒一人ひとりの「自分史」を集め、お寺が、縁のあった人々の記憶ステーションとなるのだ。ふりかえりにふさわしい場=お寺で勉強会を行い、書き上げたものを本人が1冊(あるいは親戚等にも数冊配布)、菩提寺に1冊保管する。家でジッとワープロに向かってもなかなか書き出せないものだが、住職と一緒に昭和の時代をふりかえりながら話をすれば、自然と筆も進む。独りよがりな自慢話にならず、時代背景を織り込んだ「読み物としての自分史」ができあがる。
さらに、寺に集積されたエピソードを、地元の若い起業家や、ニートやひきこもりの若者たちへも伝える機会を設ける。これが実現してゆけば、まさにお寺は「見えない活力を紡ぐステーション」になれるのだ。
アンケートのコメントから、寺サイドの素地は(おそらく今も昔も変わらず)充分に養われていることを感じた。あとは、一般の人々の意識がこちらへ自然と向く機会をつくるだけだ。
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