ガラパゴス化する日本の仏教研究 ― 国際会議で日本の解釈主張を(2/2ページ)
浄土宗総合研究所研究員 大正大綜合佛教研究所研究員 石田一裕氏
国際学会だけではない。そもそも日本人研究者が、自身の日本語論文に英文タイトルをつける時でさえ、伝統的な読みよりも中国語音を付すのだ。それが学術的な規則と受け止められている以上、研究者はそれに従うであろう。けれども学術的な規則と、日本仏教における漢訳文献の研究の伝統とのどちらを我々は重視するべきであろうか。
私は現在の仏教学の状態が柔道に似ていると思う。柔道が国際化される中で「JUDO」となり、カラーの柔道着が用いられるなど国際規定も新たに定められた。もちろんある人は柔道と「JUDO」の本質は変わらないというであろう。しかしカラー柔道着などに対して日本の柔道界は反対の立場をとっており、両者のルールが完全に一致しないことも確かである。日本発祥の柔道であっても、世界に広まり国際化が進む中で元々の国内のルールが変化するのである。それに抗うためには国際化に積極的に関わる必要がある。
日本の仏教学も同様である。国内では国内ルールとして漢字を日本語で読み、たとえサンスクリット語の原典名がわかっていても、漢訳名でその典籍を表記することが多い。しかし、これは国際的には全く通用しないルールである。それ故、研究者は国内ルールと国際ルールを使い分け、日本国内の仏教学がより一層ガラパゴス化していくのだ。しかしながら、これを実感するためには国際ルールに基づいて開催される学会に出席しなければならない。私は仏教用語の多くがサンスクリット語で語られ、漢字は中国語の現代語として発音される学会に出ることで、日本における仏教研究の現状に危惧を感じた。
私の発表も、このような現状を反映するものであった。発表の要旨は、漢訳経典の英訳における具体例を提示しつつ、訳語の選定に一考を促すものであった。例えば「観音」は、日本では「かんのん」と発音されるが、中国語では「グヮンイン」となり、英語では「アヴァローキテーシュバラ」となる。日本仏教において「かんのん」を信仰対象とする人は多いだろうが、それは「グヮンイン」や「アヴァローキテーシュバラ」を信仰することとは異なると、私は思う。
阿弥陀仏で考えればより一層明確で、私は「あみだぶつ」を信仰するからこそ「なむあみだぶつ」と称えるのであり、それを「ナモーエーミートーフ」や「ナモーアミターバ」などと称えるとすれば違和感を覚えるであろう。漢訳仏典の英訳において、何をどのように翻訳するかは慎重に検討すべきなのである。
もちろん、私は日本仏教の伝統を世界に押し付けようとは思わない。しかし、自身が関わり信仰する日本仏教の魅力や歴史を、世界に伝えたいと思っている。そのためにも、日本仏教徒が信仰のよりどころとし、また日々の儀礼に用いる経典を英訳するにあたっては、日本の解釈を踏まえて訳すことが必要であり、そのような翻訳のスタイルを世界の学会にアピールする必要があるのだ。
我々は日本国内だけに目を向けるのではなく、世界に対して日本の仏教の伝統や経典解釈の歴史を、堂々と主張する必要がある。今後、日本の仏教徒、その中でも特に我々若い世代の仏教徒には、国際化が進む中で多くの先達が築き上げた日本仏教の歴史や魅力を世界に向けて発信する義務が課せられているのではなかろうか。そのためには、日本仏教の研究者が国際学会で活躍する必要がある。
日本における仏教研究には多くの僧侶が関わっており、それぞれの信仰に基づき研究を進めている。国際学会は、その成果を世界に向けて発信することのできる重要な機会であり、今後、若手研究者はできうる限りそこに参加し、自身の意見を主張するべきである。そうしなければ日本仏教のガラパゴス化が進み、我々の大切な日本仏教が世界から見放されてしまう。そのような未来を招かないために、過去の叡智に学び、それを背景に日本仏教の立場を主張することが今後より一層求められるところである。